体験談集1

 

YKさん 

 

ディクシャを受けてからの効果 

初めて受けさせて頂いた2006年の文京シビックホール以来

2年半の歳月が流れました。私という存在の中心に安心感が

どっしりと居座っているような感覚が強くなっております。

また、近頃他者との一体感というより“すべてが私として存在する”

という感じ・言葉がよく浮かびます。

今回のディクシャ会の体験・感想

今までのディクシャでは感じなかったエネルギーの力強さみたいな

ものを感じました。らかい微風から強力な風に変化したような・・・・ サムスカーラシュッディでは10代、20代の頃の見ないように

必死に隠し続けていた感情と向きあった。
しかし自分の回想の仕方が今ひとつだったのか、昔のリアルな感情が  思ったほど湧いてこなかった。少し時間を置いて考えてみたら、

2年半のディクシャ体験が感情のわだかまり部分にも陽を当てて

くれたのかナーとも思いました。

 

 

NIさん  札幌

 

3日間お世話になりありがとうございます(*^^*)

お陰様で とても楽しく過ごさせてもらいました(^o^)/~~

 

感想として 3日間それぞれ 違ったエネルギーが流れ 面白かったです。

 

一日めは体の不調な左部分に穏やかでゆらゆらしたエネルギーが

動いていました。

 

二日めの ムクティはチャンティングが終わった途端に

今までで一番鋭い早さで頭上からぐるぐるとエネルギーが

入ってきましたシャバーサナの時は体をはうようにその鋭く

強いエネルギーが動いていました。

 

3日めの 目のディクシャはシャバーサナの時 左手から

ゆっくり エネルギーが入ってきて 体の中をとてもゆっくりですが

重く深く入ってきたので 体の感覚がなくなり まわりの音だけ

聞こえている状態になりました。

 

松田先生のセミナーは先生がその場にいらっしゃるだけで

いつもよりかなり強いエネルギー体験をさせていただけて

先生の存在の偉大さを体感できます。

 

心の部分でも 早速ひとつ気づきがありディクシャ効果だと

心が軽くなりました(^o^)

 

 

KOさん  札幌

 

先日は色々と質疑応答の時間をとって頂き、かつ分かり易く

説明して下さり、有難うございます。

 

私は、最終日のみの参加でしたが変化は参加する前から

確実に起きてました。

 

参加の前日に昼食用のパンを買いにスーパーへ行くと、

以前に不愉快な思いをして距離を置いていた人達と会ってしまいまし  た。

 

多分、今までに変化が訪れるときに私にとって関わりたくない

人達との再開が有りましたので、何かのきっかけ何だと思います。

 

セミナー参加後も、何故かしっかりと睡眠をとったにも関わらず 、

頭痛が治まらず原因不明の涙が止まりませんでした。

 

頭痛は場所と強弱を変えて今も続いています。

 

自分で言うのもなんですが、私にの心には蓋をする事で自分を

保っているという事をずっと自覚していたので答えはおいそれと

顔を出してくれないと感じてました。

 

それでも、浄化が始まったと思います。

 

以前ほどではありませんが、時折天からエネルギーが降りてくる

のを感じております。

 

最後のお茶会には参加出来ず、とても残念でなりませんでした。

 

またいつかお会い出来ることを楽しみにしております。

 

 

STさん 群馬

 

『プレゼンスの目覚め』では、いつも何か話したり聞いたりしても、

終わると忘れてしまう事が多々あったので、

「私が分かりやすい様に、記憶に残りやすい様に感じさせて下さい」

と願いました。

 

はじめ左側の頭上から強い光がさしてきて、

その眩しさを感じていました。

 

すると大好きなフィギュアスケートの浅田真央ちゃんが出てきて、

気持ち良さそうに優雅に披露していました。

 

その後も色々な映像が出てきました。大きな龍が旋回したり、

一緒にディクシャを受けたSさんの顔が浮かんだり(私自身Sさんに

妙に惹かれるものを感じていて、しかも観音様のお顔に似ている)…

 

細かくはやはり忘れてしまいましたが、私が好きなものや人が

次々現れました。

 

松田先生が胸の辺りに手を置いてくださると、眼球が今までにない速さ で、超高速回転しだしました。

 

ディクシャを受けたりするとたまに目が回転する事がありましたが、

今回は眼球が飛び出る様な勢いでよく回ってました。

 

しばらくすると光だか炎だかのトンネルに入り、だんだん黒っぽい

玉みたいなものが自分の眉間めがけて飛び込んできて、その後

『真実が見える』と声が聞こえてきました。どうやら

『真実が見える目』 をいただいた様です。

 

それと体験談をシェアしている時、Nさんの体験談の中で

お腹がでっぷりして、酒を飲んで酔っぱらって踊っている七福神の

恵比寿さんか布袋さん?に似た人が出てきた…と話してくれて、

そういえば私の所にも酒は手にしていなかったですが、

でっぷりしたおじさんが出てきました。

 

私は天使や光みたいな神々しいプレゼンスを望んでいたのですが、

とてもプレゼンスとは思えない、そのいでたちにガックリしていまし  た。

 

驚いたのはさらにSさんも同じ様なでっぷりしたおじさんを見たとの  事。 Sさんのは色黒だったそうですが。

 

『ディクシャ』では最初先生が「ディクシャする人数は3人で」

と言われて、ギバーさんが1人多かったので、その方を抜かしてと

おっしゃったのですが、私はその方にも惹かれるものを感じていて、

『絶対ディクシャやって欲しい』と願っていました。

 

1人目の方はとても優しくフワッと包まれている感じで、

とても気持ちよく『このままずっとしてて欲しいなぁ』と思いながら、

身をまかせていました。

 

2人目の方は逆にパワフルでしっかり地球に埋め込まれる様な

感覚でした。そしてその方を『これは私だ』という思いが出てきまし  た。

 

3人目の方は…あれ?松田先生ではない!?…さっそく願いが

叶えられた様で、『ディクシャして欲しい』と願っていたその方も

ディクシャをして下さいました。

 

さすがバガウ゛ァン叶う願いは早い。

その3人目の方は波の様にエネルギーがするすると細胞に

浸透していく様な感覚がありました。

 

そして松田先生のディクシャは、何故か虎が出てきて吠えていました。

 

ハグされた時はバガウ゛ァンを感じたと思ったら、『ワンネス』

という文字がこれでもか!と言わんばかりの大きさで力強く現れまし  た。

 

『サムスカーラ』ではバガウ゛ァンにお願いしてみたものの、

いまいち感情のしこりが出てこず、ただまどろんでいました。

 

サムスカーラの最中、会場を貸してくれているNさんの飼っている犬

(ポメラニアン)が、くしゃみを連発していたのが可笑しかったです。

 

そして今回のメインイベント、ディクシャギバーになる為の

イニシェーション。

 

松田先生が近づいてくると何かいつものディクシャとは明らかに

違う感じで、手を頭に置かれた瞬間、この世のとは思えない

物凄いエネルギーの塊、大きな隕石が当たった様な

言葉では言い表すのがかなり難しい強烈なものが入ってきたと思った  ら、 私が破壊されました。

泣いたと思ったら可笑しくないのに笑いだし、

恐怖を感じ発狂したと思ったら笑いだし…

 

正座で受けていたのですが、あまりにも強い衝撃で座っている事も

出来ず、他のギバーさんに介助していただきながら、

横に寝かせていただきました。

 

松田先生の手が頭から離れた後も、ハートから様々な感情が

噴水の様に次々溢れ出てくる感じで、私はどうする事も出来ず、

その感情たちを噴火させておくままにするしかありませんでした。

 

2004年3月~4月にかけてインドのコースで、

初めてディクシャを受けた時もかなり壊れましたが、

今回のイニシェーションの威力はインドで受けた何万倍もの凄さでし  た。

 

空海が悟った時に口の中に光の玉?が入ったという話を聞いた事が

ありますが、ディクシャのイニシェーションはそれに近いというか、

それ以上の破壊力があった様に思います。

 

私が破壊されるにはあのくらいの威力が必要であり、私自身も

『強いのを一発お願いします』と願っておりました。

 

松田先生のお話される中で、バガウ゛ァンから大矢さんを始め

多くのお弟子さんが抜けた事の意味、

そしてそちらの苦しみ解放運動ではなく、松田先生(=バガヴァン)から のディクシャを受けた意味がわかりました。

 

私は難しい事はよくわかりませんが、『真実が知りたい、

真実でなければ意味はない』という思いが昔から常々あって。

このバガウ゛ァンが薦めている運動は真実だという

勝手な思いがどこかにあって。

 

最初この運動を知った時は異常な熱さがありましたが、

2年くらい離れていた時期もあり、昨年から復活して松田先生の

ディクシャをまた受け始めましたが、だからと言ってこの

バガウ゛ァンの運動に物凄くはまっているわけでもなく…という感じ  で。

 

ただ今回、松田先生のお話や体験したり体験談をシェアしていく中で

『松田先生もバガウ゛ァンも私は好きだから参加した』それだけで

充分であり、松田先生もおっしゃって下さった様に、

これからは好きだな~と思える人にディクシャをして素直に

生きていく決意が出来ました。

 

(ディクシャを受ける2日前、アンマバガウ゛ァンの写真の前で、

お供えしてあった日本酒を飲み、バガウ゛ァンとガッチリ手を

組み交わしたビジョンを見ました)

本来の『お笑い自由人』であるこの私の質がいよいよ解禁して

しまいましたので、逆に恐ろしい気もしますが

これを抑え、決して認めようとせずに自虐を繰り返していたので

相当苦しい日が続いていましたが、もう後戻りは出来ない様です。

 

ディクシャ後の体験はお店の看板を見てたまにツボにはまる

お店の名前を発見すると、1人で笑っていたり、

靴下を脱いでいつもなら洗濯かごに入れるのですが、

脱ぎっぱなしで床に置いてあるその状態があまりにも完璧で

素晴らしく感じてしまい、もったいないのでそのまま1日置いてみた  り。

 

久々に天気がよかったので散歩に出掛けたら、アスファルトが

キラキラして綺麗だったり、下水道を流れる水もキラキラ綺麗だった  り、 作られたものにも美しさを感じていて今まで見ていたものが

くもった目でみていたんだなぁ…と感じながら気持ちよく散歩しまし  た。

 

これからまた現実面も感情面も色々出てくると思いますが、

『どんと来い!』という感じです。

松田先生、楽しいワークをありがとうございました。

 

 

NKさん 群馬

 

ディクシャを受け続けた私の体験

 

私は、どうやら本当に近い身内に限っては、霊媒体質になることを

許しておるようで、あるとき亡くなった父のメッセージを貰い

その真理をついたメッセージに凄く感動しましたが、

今回実母の父、祖父のメッセージ、祖父が私たちに伝えたいこと、

そして祖父の思いが伝わってきて、また偉く感動してしまいました。

 

父からのメッセージは、

 

『思うままに生きなさい!

お前はお前を生きていいんだ!』

 

『こだわりなど捨ててしまえ!

お前はもっと自由に生きるべきだ!』

 

『自分らしく生きなさい!』

 

 

このメッセージを受け取ったばかりのときにはまだ本当には

この言葉の意味がよくわかっていなかったんです。

 

今本当にしみじみと実感しております。

 

そして今回、私の母方の祖父のメッセージや思い、

私たちに伝えたいことは『本当の愛について』だったと思います。

 

 

私たちが今まで『愛』だと思っていた『愛』とは、

実は凄く偏った愛だったんじゃないかと思います。

 

祖父は涙を流してバガヴァンの写真を見ながらこう言っておりました  が、 それは家にバガウ゛ァンの写真が飾ってあるからでありますが、

祖父が言いたいのはバガヴァンに限らず、真のマスター達全般を

指しているわけです。

 

『いいか、信じるものだけが救われるなんてないんだぞ!

信じられないでいるそんな堕落したようにみえる奴らこそ

真実である場合があるんだ!信じることが出来ないそんな正直な

心のままでいいと言ってくれているんだ!それさえも受け入れて

くれているんだぞ!この愛がわかるか?この堕落したような自分さえも

受け入れ愛してくれているんだ!この愛がわかるか?ありがてえなぁ!

ありがてぇと思わないか?無理に信じようとすることじゃねえ、

そのままでいい!そのままでも十分愛していると言ってくれているん

だよ!この愛がわかるか?』

 

私の胸に凄く響いたおじいちゃんの熱く伝えたい思い。

 

私はおじいちゃんと気持ちを共有しながらワンワン泣いておりました  ら、 ふっとおじいちゃんは帰るべきところへ帰ったのを感じました。

 

今まで私たちは『信じるものだけが救われる』と教えられてきました。

がしかしこのことで随分長い時代私たちはなんと苦しめられてきたこと でしょう。

本当に心の底から信じている人って本当はまだ…

 

大体信じようと努力している人達が殆どですね。

でも、いったい何を信じようとして何を信じていると

言っているのでしょう。

 

 

一昨日おじいちゃんのメッセージを受け取った後、

母から電話があって二人で出かけることになり、

車中私はおじいちゃんから教わった大事なこと、

私の腑にずっしり落ちたことを母に伝えることとなった。

 

案の定「おじいちゃんがさあ、…」と話し出した私に母は、

条件反射で凄い怖い顔をして私を睨みつけながら、

「何……」と聞きながらも、聞く耳持たない態度を示した。

 

「おじいちゃんがさあ、」と言いかけただけで、

私はまだ何も言っていないのだが多分母は過去の経験から

予想して反応したのだろう。

 

恐らく何かを責められるとか、非難される、否定される、

何かを押し付けられる、何 かを強制させられる・・・

そんな類いのものが反応させたのだろう。

 

大体みんなから(私も含めてだが)祖父の話が出たときや、

母のことについても、そのままの祖父や母を認めてあげるような

ことはなかったように思う。大体「祖父の過去のこういうことが

家系の悪因縁になっている。」とか、母に対しても

「あなたのこういうところがいけないところだから直して、

こうなるべき」みたいなことをいつも言われていたように思う。

 

そんな母が抵抗を示して喋り出した「何なのよ……、

また……何だって言うのよ……いつもいつも皆して……」

その顔は怒りと悲しみと恐れでいっぱいに私には見えた。

 

私は一まず母が落ち着くのを待ってから、母の肩をさすりながら、

「お母さん、違う んだよ!!私が言おうとしているのは、

お母さんやおじいちゃんを、否定したり非難したりしているんじゃ

ないんだ。それに何かを押し付けることでも、何かを直してほしいと  か、こうなってほしいとかそういうのでもないんだ!! 

 

私が言いたいのは、おじいちゃんが言ってた本当に幸せになるための

人生の生き方なんだよ!お母さん、私達はずっと誤解して来たんだ。

おじいちゃんは、常識からはかなり外れて思うがまま好き勝手に

生きたような人だったけど、だけど肝心なところでは本当に

困っている人には手を差し伸べて助けることの出来る人だったよね。

だから、そんなおじいちゃんを私は今ではとても尊敬しているんだよ。

今まだ、家の家系の因縁がどうだのこうだの言って、

悪因縁を切る為にこうしろああしろ言ってくる人もいるかもしれない、

だけど、そうじゃなかったんだよ。

 

本当に幸せになる為の人生って、因縁を切ることじゃなかったんだ。

だって自分でこの家系を選んで生まれて来たんだもの。

自分でこの沢山の課題を乗り越えると決めて生まれて来たんだもの。

 

だから切ることじゃなくて、逃げることじゃなくて、

人生何が起きても喜んでそれを受け入れて体験してしっかり味わいき  り、乗り越えていく為だったんだよ。

だから、前にお母さんの天使の名前「ラブ」って聞いたことあるけど、 その名前教えてくれた人から聞いたこと私やっとわかったんだよ!

 

この世の中で、不幸な人生って言われている人程、

沢山の課題を自分で決めて、その課題を乗り越える度に、

沢山の愛を学んでいることになるんだ。

 

苦しいことも辛いことも魂にとってはとても大切なレッスンなんだ。

それを乗り越える度に、魂は磨かれていくんだよ。

あの世に持っていけるものって言ったら、たったそれしかないよね!!

 

この世で、体験して経験して感動して味わったもの、

それしかないんだよ!!

 

だから、いい事もそうじゃないと思える出来事も、

みんな必要で、それを沢山経験したお母さんは、

沢山の愛を学んで来た人なんだ。だからもし誰かがお母さんを

否定したり非難したりしたとしても、それは気にしなくて大丈夫!!

お母さんは、そのまま でいいんだよ!!お母さんは、

そのままでとても素晴らしい人なんだ!!」

 

 

母は、頷きながら黙って聞いてくれていた。

母が静かに聞いてくれているのが珍しいので、きっと心の中では、

おじいちゃんの伝えたいことが、しっかりずっしりと、

響いているに違いない。

 

私の中のひとつの心の闘いも終わりを迎えようとしていた。

 

昨日は、ご先祖様にお線香をあげて、手を合わせ目を閉じていたら、

私の目の前に、母方の祖母の姿がはっきりと見えたんだ。

 

私にとって最大の大きな壁っていうのが、父方、母方両方の祖母    で・・・ だからその内のひとり・・・

母方のおばあちゃんになるわけで・・・

 

私はお母さんからの固定観念で、おばあちゃんを色眼鏡でしか

見られなかったんだね。お母さんにはあまりおばあちゃんの

いいところを聞いていなくて、お母さんのおばあちゃんに対する恨み、

つらみ話で育てられたようなものだからね。

 

だから、私にとってのおばあちゃんの印象っていうのが

最悪だったのだよ。

 

そのおばあちゃんが、私の目の前に、凄く穏やかににっこりと

笑って出て来たものだから・・・・・

「おばあちゃん・・・」心の中で呟いていたら、

 

もうその時、私のマインドと、ハートは分離していた!!

 

理解に苦しむが、思考というのかマインドではなくて、

ハートの奥底からと言うのだろうか・・・

 

 

頭では話そうとしていないのに、口をついて出て来た言葉は・・・

 

 

「おばあちゃん、ありがとう。おばあちゃん、ありがとう。

おばあちゃん、ありがとう。おばあちゃん、ありがとう。・・・・・・」を繰り返しながら、涙がツーっと流れ落ちて来た。

 

 

何度繰り返しただろうか・・・・・・・・

 

最後に

 

「おばあちゃん、お母さんを産んでくれてありがとう。」

と呟いていた。

 

 

おばあちゃんの偉大さを感じて泣き崩れた。

 

 

今日は、洗面台の鏡に映った自分の姿を見ていたら、

その瞬間、母への想いが溢れてきた。

 

「お母さん私を産んでくれて、ありがとう。」

 

今日も沢山泣いた。

 

今度母に会ったら、ちゃんと面と向かって言おうか・・・

 

「今までごめんなさい。お母さん私を産んでくれてありがとう。」と。

 

私の心の中のひとつの闘いが終わった気がした。

 

 

ご先祖様命を繋いでくれてありがとうございます。

 

今日も生かされてます、ありがとうございます。

 

感謝!!

 

 

 

バガウ゛ァン、松田先生ありがとうございました。

感謝!!

 

 

CTさん (2009年9月 六甲山合宿体験談)

 

松田先生とは東京のディクシャ会で初めてお逢いしました。

 

サムスカーラの効果にびっくりし、そのまま八ヶ岳の合宿へ

参加させていただきました。

 

先生からは「もっとエゴイストになってください!」、

「いい人になろうとしないでください!」と言われていました。

 

そうなんです。

私は、本当の意味で自分を大事に出来なかったのです。

なので、苦しかったのです。

 

先生の言葉は、私の深いところで、なんとも徐々に救いの言葉に

なってきていました。

 

そして、その後、六甲山合宿があるとお聞きして、なんと、

経済的ピンチにも関わらず、流れにのったかのように、

そのまま参加させていただくことが出来ました。

 

緊張し易いタイプなので、内心とても緊張しつつ、

参加出来るだけでどこか嬉しい気持ちがしていました。

 

合宿の最中は、私の内側でマインドの動きが速かっためか、

緊張が強いためなのか、とにかく、頭頂からスースーとなんとも

パワフルなエネルギーがずっと入ってきていました。

 

まるで催眠術にかかっているかのように寝てばかりでした。

 

皆さんの集まりのときでさえも、殆どが、バク睡もしくは、

スヤスヤと心地良い眠り状態ばかりでした。

 

そんなときに、松田先生が、マインドからの解放~知識からの解放

~条件付けからの解放~仕事からの解放~云々と、マントラと

スローカーの説明をしてくださった頃になったら、急に耳元と

体の周囲が澄み渡るかの様に感じられ、なんだか先生の声が、

途中からとてもクリアで自然な響きとなって聞こえてきました。

 

耳を傾けていると、突然、内側で、はっきりとした枠組みできる

知識ばかりではなく、人間の眼に見えてない考え・価値感・想い、

それ自体がまるで生き物の様に生きていて、とてもとてもパワーが

あるものなんだ~というように瞬間として強く感じられました。

 

幼い頃、大人達の考え・価値観に押しつぶされそうになり、

傷ついている自分の様子が思い浮かびだされました。

 

そして

「もう考えなんていらないや~! 無いほうが全く楽だ~!

必要なときに必要な心地よい考えを自分で選んで使えれば、

それが楽でいいや~!」という想いで一杯になりました。

 

スピリチュアルな本や、スピリチュアルな人の言葉でさえも、

凄く大事なこともあるけれど、ときとして自分を縛りつける

力にもなってしまうとさえ感じました。

 

なので、それさえ、そんなのもうどうでもいい~!いらない~!

と思う気持ちが湧き上がってくるという体験でした。

 

 

もう一つの体験は、六甲山合宿前まで、「もっとエゴイストに

なってください」という松田先生の言葉は私のなかで支えになっている

部分があったのですが・・・どういう訳か合宿中は、その言葉の概念  が、なぜか、どうにも不具合になって仕方ないという感覚に徐々に

なってきていました。

 

なんでかな~? なんで、こんな不具合に感じるんだろうか~?

と思いました。

 

それは、合宿中には、世の中で生活してきた競争意識や

生き馬の目を抜くという言葉のような、のろのろしていたら

おいてきぼりを食らう、そういった種類の感覚は全く

必要なかったからでした。

 

なので、たとえ松田先生の言葉であっても、今このときに、

自分にとって不具合なものは不具合なんだ!!と思い、その言葉も、

もういらない~!と心の中から手放しました。そしたらば、

自分が楽~になりました。

 

ただ本来ある私へ戻るだけ、そんな感覚がしました。

 

そして、私は大事なことを思い出しました。

自分の心の中に、必要なコンパスのような意思決定・・・というより

“答え”があるということを、すっかり忘れていたことに

気付かせて貰いました。

 

以上のことを、合宿終了後の会で、松田先生にお話しましたらば、

「不具合というのはブレーキになったのですね」

と解説してくださいました。

 

そういうことだったのかなと自分で思いました。

 

そして、いよいよ六甲山での合宿が終了し、参加者の皆さんが

全員お帰りになられました。

 

私は唯ひとり、交通手段の関係で、もう一泊YMCAさんへ宿泊

させていただき帰宅する予定でしたので、その晩から翌日まで、

とてもとても静かすぎると感じたくらい、自然以外には

何もないような静か~な一人の時間を過ごしました。

 

翌日は昼頃になってバスで、お世話になった六甲山を下りました。

 

すると、なんとも、下りる途中になって、突如、

それまでの澄み渡る空気から、いきなり顔へ向かって“ウワ~~ッ”

とパワフルに押し寄る、不思議な空気を体感しました。

 

それは、まるで、地上の生活からくる人間の吐き出す日常意識を

空気のパワーとして瞬間的に感じたかのような気持ちになりました。

 

きっと地上で生活していれば自分も、その中にいるんだな~と

不思議な気持ちになりました。 なんとも・・・下界に降りたぞ~というパワフルな体験でした。

 

その体験を感じた瞬簡につぎの体験がやってきました。

 

先程までの穏やかで緩やかな感覚から、私の中で理由より先に

“がんばらねば~~!! ”という強烈な意識が、非常に強く

溢れ出てきました。

 

そのとたん、合宿中、もういらな~い!と放棄したはずの

「もっとエゴイストになってください」という先生の言葉が、

突如、とてつもない“心の中のお守り状態”に変化してしまいました。

 

それはまるで、込み入った電車の中で必死に力を入れ吊り革に

つかまる感覚でした。

 

あまりに、極端すぎる感覚だったこともありなのか、

その内側の状態も大変苦しい窮屈なものと感じたので、早速、

合宿を通して教えていただきました、サムスカーラを行い、

味わいました。

 

そしたらば、先程までの大変に窮屈な感覚から、「適当にね~」

という緩やかな感覚に自分の内側が変化してくれました。

 

よかった~とホっとしました。

 

この体験を通して、同じ人物に対して、同じ言葉・考え・概念が、

そのときそのとき、これほどまでにときとして、全く違う働きを

内側で起させているということを知り、我ながら驚いています。

 

考えはない方が楽だ~と思うのですが、生活の中で考えは必要でもあ  り、そのときそのとき必要なときに、必要な心地よい考え・概念を

自分で選んで使えば楽なんだな~ということを更に深く思える

体験でした。

 

以前は、何らかの不都合な出来事が起こるとショックを受け、

激しく動揺するうえ、 マインドだけで対応していたと感じます。

 

最近の自分を観ると、同じような出来事が起きたとしても、

勿論これまでと全く同じように激しく動揺はしますし、

ショックも起こり、あるときは落ち込みます。でも、

それそのものがプロセスなのだという気持ちでになってきます。

 

そして、内側で、どこか腹が据わった気持ちで、

そのときによってはでありますが体験を受け入れていることに、

まずは驚いているところです。

 

感情のチャージによる負担が楽になると、

同じ出来事でも内側が自然に落ち着ける感覚になるものなのだと、

驚きと共に実感しました。

 

合宿中、松田先生に手ほどきして頂いた、サムスカーラは、

今のところ、一人で味わうことは、上手くいくときもあるし、

上手にいかないときもありますけど。^

 

以上が六甲山合宿での私の体験でした。

 

合宿中、なんだかんだと内側では結構大変なときが

あったりするのですが、それさえも含め、なんとも楽しいひとときを

共に過ごしてくださいました、松田先生ご夫妻はじめ参加者の皆様方

全員へお世話になりましたこと、ありがとうございました。

 

また御縁が頂けましたらば是非ぜひ参加させて貰いたいと思います~。

 

 

KKさん  東京

 

先日こんな体験がありました。

 

ある日、仕事が休みで家で過ごしていました。

ゴロゴロしながらぼんやりと部屋でくつろいでいました。

その時なんとなく自分の内側に視点が移り、自分の内側では

エゴやマインドが働いているのに気づきました。

 

視点が移った事を、その時は気づいていません。 

その時はただ流れで自分の内側を見ていただけです。

 

内側ではマインドやエゴが働いている自分に対して、

それをまったく他人事のように観ているもうひとつの自分がありました。

 

まるで私が2人居るような感覚です。

 

他人事のように眺めている私は、エゴやマインドが働いてる

もう一方の私を観て「ふーん、それが自分だと思ってるんだ?」

という感覚を持ちました。

 

その後「はっ」と我に還りましたが、時間にして10秒にも満たない

ほんの数秒のことだったでしょうか。

 

数秒の体験を後にしてまず感じた事は、エゴやマインドは

それ自体の性質として、とても自然な働きをしている、

という事でした。

 

エゴはエゴとしての、マインドはマインドとしての働きしか

しておらず、それ以外の働きは出来ないと言う事です。

 

自然法則のようにそれらは当然な働きをしてたんだ 

という印象を強く持ちました。

 

またエゴやマインドの働きによって受ける影響そのものを「私」と

思い込んでしまっているが、実の「私」はエゴやマインドの働きとは

まったく別物であり、非常にクリアで純粋な「私」が存在している、

どうもそれが本当の私なんだと。

 

そしてクリアで純粋な「私」には何事も起きない 

その「私」には何もない というのも強く感じました。

 

それが真我とか純粋意識とか、もしかしたらそれがそうなのかもしれな い と思ったりしました。 

 

それに続き、このような理解も自然と起こりました。

私は聖者や覚者はエゴやマインドなどに無縁というイメージを

持っていました。

 

目覚めている人々は決して心騒がず、平安な状態であると。

しかし時に聖者や覚者が怒りまくる、わめき散らす、

そんな実話を耳にする度、それってどういう事なのだろうか?

と理解出来ませんでした。

 

けれど自分に起きた一瞬の体験で、その聖者、覚者のふるまいが

理解出来ました。

 

エゴやマインドを自由にに働かせて、それが自分の身体を通して

どう表現をされようとも、それと同時に覚醒して存在するという

あり方も可能なのだと。

 

日々の生活で、今でも私の中では相変わらずエゴ、マインドが

働いてます。

 

無意識にも支配されっぱなしです。 

エゴやマインドは変わってはくれません。

 

ただ、時々自分のエゴやマインドの働きに気づいたりすると、

「ああ、またやってるな」とそのままにさせるようになったりしてま  す。

 

見た目は自分が慌てたり、色々とざわめいているんですが、

内側では「もう好きにして 勝手にやって」とかなり諦めています。

 

以前はエゴやマインドの働きが止むのを期待してましたが、

時にその現象が起きても放っておくという、まったく想像もしなかった

行動を取り最初は驚きました。

 

でも毎回このような対応が出来ている訳ではありません。

本当に時々です。

 

エゴやマインドに対し何か色々と接し方、扱い方があるようだな

と最近は思います。 

 

 

NTさん  前橋


先生のディクシャを受け、横になり暫くすると、私たち家族三人と、私の両親が、今とは別の新しい家に、一緒に住み、そしてみんなで楽しく、その家のお庭で、バーベキューしている映像が浮かびました。

そこへ、二人の姉の家族も、遊びに来て、みんなで楽しく盛り上がっていました。皆ひとりひとりの笑顔がとても輝いていました。

みんなの楽しそうな笑顔を見て、嬉しそうに微笑んでいる自分が、そこにいるのが見えました。
映像の中で、感動を味わうことが出来ました。

ここまで、リアルに想像出来ることは、必ず、現実になると、何かの本に書いてありましたが、私は天使に以前、質問した答えを貰った気がして、とても嬉しかったです。

その質問とは、ある自分の気に入った土地に新たな家を建てるという夢があって、その家での、ある二つの夢があり、どちらを選択したらよいのか、大変迷っていたのです。

土地を買うお金もなければ、家を買う余裕ももちろんありませんが、その夢の想像を膨らませ、二つの夢の選択に大変迷っていたのです。

そのひとつの夢は、その家で、私たち家族と両親が一緒に住み仲良く暮らすという夢、もうひとつは、その場所で、私の仕事関係の幅を広げ、生き生きと、楽しく仲間と仕事をしているという夢でした。

どっちも、私にとって、決められないことでしたので、天使に、「私が、本当に心から望んでいる方をどうぞ、教えてください。」と、お願いをしておいたのです。

私にとっては、まず、「家族」だったのです。

その映像の続きがありました。
バーベキューを皆で楽しんでいるお庭から見える空に、光りの線で、大きな鳥の絵が描かれました。

そして、光の線で描かれた鳥が、本当の鳥になり、羽ばたき始め、そして、その鳥の背に、私と私の娘が、飛び乗りました。

そして、私たち親子は、鳥の背に乗りながら、大空を自由に飛び回ったのです。優雅に、そして時には、猛スピードで、風を切りながら空を飛びました。

そして、私たち親子は、空を突き抜けて、天に昇り、宇宙へ行きました。

すると、鳥が、宇宙船になっていました。
宇宙船で、宇宙を旅して、宇宙船の中から、私たちは、地球を見ました。

「地球だ!!」と、思っていると、突然、宇宙船の中から飛び出し、宇宙の空間に、 私たち二人は、ただただ、体を預けて漂っていました。

そして、私たちのハートに、その宇宙全てが入り込み、瞬間的に、地球に戻って来ました。私たち二人は、家族みんなの元へと、戻って行きました。

と、ディクシャでは、そんな映像を見せて頂きました。
私たち親子二人、ディクシャでの体験で、宇宙を旅して参りました。

宇宙の愛を、ハートに詰めて、家族に、そして、周りの方々と、接していきたいと思います。


サムスカーラシュティのセッションでは、普段の母の言葉で、傷ついた自分を観察し ていたので、それに焦点を当ててみることにしました。

天使の話をぼっと、母にした時、「また、そんなこと言って!!」と、強い口調で、 怒った顔や、「お前のやっていることは!!」と私の信じてやっていることに対して
の否定的な言葉で私は、とても傷ついていたのです。

それは、今始まったことではなくて、幼少の時からだったように思います。

そのため、私は自分が思ったことを、口に出すことを、大変恐れていました。ですが、私の頭の中は、そのことで、いっぱいでしたので、とても、口数の少ない子供でした。

母の言葉で、自分が認められてないような、自分を否定されているような、本当の自分を出してしまったら、愛してもらえないようなそんな気になっていたのです。

そんな感情と今回向き合ってみました。

感情を感じてしばらくすると、真っ暗な暗闇で、膝を抱えて、顔を伏せ、体を丸めて 小さくうずくまっている自分の姿を見ました。

すると、そこへ、綺麗な色たちで優しく光り輝く小さな妖精みたいなのが、その私の周りに集まって来ました。

何か、その私に、話かけているようでした。
そしたら、上から、一筋の光りが、うずくまる私に向かって降りてくるのが見えました。

私が、顔を上げると、その光りは、更に、広がり、私をすっぽり光りに当ててくれました。上を見上げた私は、とても眩しくて眩しくて・・・。

すると、アンマが出て来て、アンマの片腕に私は抱かれていました。

アンマのもう片方の腕には、何と、母が抱かれていました。

アンマに抱かれた母を見るなり、瞬時に母の痛みが、私に伝わって来ました。同じ痛みを持つものの、母の痛みは、私よりも、かなり深い痛み、深い傷があったのです。

私は、母の痛みを感じながら、涙が止まりませんでした。

人は、痛みを持っていたらそれを癒さないと、また同じ痛みを人にも、与えてしまうと、聞いたことがありますが、私たち、親子、そして、代々伝わる家系の連鎖に、それがあったように思います。

そして、それは、もっと深く、過去世からもずっと引きずっていたようです。
「わかったら、殺される」そんな思いまでもが、出てきました。

天使との交流や、自分の能力などを、ひたすら、隠さなければいけない時代があったのですね。


私は、ずっと私が私を抱きしめるということをやって来ましたが、今、ここでは、私が、母を抱きしめる、母を受け入れる、母を理解するときがやっと、やって来たのだと思います。

表面上では、感謝している、と思っていても、本当に母を理解し、母を受け入れ、母の愛を受け止め、感謝出来るのは、今じゃないかと思っています。

後は、自然ななりゆきにお任せして、奇跡のハプニングがやって来るのを待っています。


不思議なことに、母の姿を貼り付けて母の投影だった私の苦手だった人が、全然苦手ではなくなっていました。その人が何を言っていても、全然気にならなくなっていました。
それどころから、ハグまでして、歓迎できる私に変わっていました!!

ありがとうございます。

 

 

STさん 2009年2月20日(東京)

★プレゼンスの目覚めでは、アンマやカルキはもちろん、私が好きなガネーシャや名前がわからないが見覚えのあるインドの神様、日本の仏像など入れ替わり立ち替わり出てきてとてもにぎやかでした。


普段プレゼンスの存在を私が(無意識に?)感じない様にしているせいか、その時は出てきた存在に一生懸命話しかけていた記憶があるのですが、話の内容は悲しいかな全く覚えていません……。

プレゼンスの目覚めは昔からディクシャを受ける時は必ず組み込まれ、何十回もやっているはずですが、その時にその存在は多少感じられても、日常生活が始まるとその存在も忘れて迷子状態の日々でした。

プレゼンスと共に生きられれば楽な事は、様々な先生や人に何度も教わりわかっているはずなのに……。

プレゼンスに近づきたいのに、私が近づかない様にしている気がします。

それには結局自分自身の浄化は必須で、自分がクリアな状態でないと、プレゼンスにも近づけないんだなぁ(気付けないと言った方が近いでしょうか?)と痛感しました。

実際ディクシャやサムスカーラを受けてみて、その時は感じきったと思っていた感情が、実は蓄積されていた事がとても驚きでした。

ディクシャでは先生を含め三人の方していただきましたが、必死に自分と周りと地球の浄化を願っていました。

一人目の方には(私の中の?)男性性で、二人目の方には女性性で、最後の方には中性(どちらかと言えば母性に近い)で願っていました。
(ディクシャ後、やって下さった順番を聞いたら、女性→男性→松田先生との事でした)

それから仕事する上で『疲れた』と言う言葉を発すると気分がよくないので、タブーとしていたのですが、ディクシャ中願い終わった後は、普段よっぽど言うのを我慢していたせいか、ひたすら『疲れた』と言い続けていました。

サムスカーラを松田先生の誘導で最初にやり始めた時は、日々の疲れが抜けないせいか、ただまどろんでいましたが、二回目のサムスカーラでは、怒りを感じてみようと思い、今の職場でうまく意志疎通出来ない子を思い浮かべ、怒ってみました。

怒り続けていったら、昨年いとこが家に遊びに来た時に父が
『お前は欠陥だから嫁に行けない』
言った事が甦ってきて、その『欠陥』と言われた事が実は相当ショックで、涙が止まらなくなってしまいました。

その時はいとこ達もいたので、笑いにして流したつもりでいたのですが、単に感情に蓋をしただけだった様です。

今年から仕事が変わり、目の回る様な忙しさだったので、20日は久しぶりに自分の内側とゆっくり向き合える時間が取れ、本当によかったです。

松田先生、ありがとうございました。
また4月は群馬に来ていただけるので、今から楽しみです。

日常生活でも常にプレゼンスの存在を感じられる様になるためにも、感情に蓋をせずちゃんと感じられる様にするためにも、また参加させていただきます。
よろしくお願い致します。

 

KKさん   (9月 東京)

松田先生のディクシャ会、初めて参加しました。

ディクシャは昨年に知り何度かディクシャを受けましたが、友人から松田先生を勧められ今回の参加となりました。

松田先生のディクシャを受け始めた途端、自分と松田先生の周囲を真っ白い空間が包み込む感じがしました。

まったく別の空間にいるような感じです。

その空間の中はとても静寂に満ちあふれていて、心地よいものでした。

そして直後松田先生からのハグがありました。

けれど何故か私には10年以上前に亡くなった大好きだった祖父から、優しく抱きしめられているという感覚がありました。

思わずこらえきれずに涙があふれてしまいました。

ディクシャ会ではごく自然にわき上がるような様々な気づきに恵まれました。

私は「やりたい事」があり、やりたい事をしているつもりでした。

けれど私の思う「やりたい事」の正体は「やらなければならない事」でした。

やりたい事が存在してても実は苦しんでいました、と同時に私は無意識にでも常にやりたい事はやっていたとも気づきました。

「したい・やりたい」と意識しないことはしっかり行い、「したい・やりたい」と意識したことはなかなか出来ず仕舞いでした。

そして私の中のやりたい事は毎瞬変化し続けていることもわかりました。こだわりが自分を苦しめていました。

サムスカーラシュッディにて自分の扱う「心の重荷」はどんなものがあるのか心の中を探していた時の話です。

職場で会う同僚に対して、決まってムッとしてしまう「怒り」のシーンが思い起こされました。
部屋でデカイ態度で足を組みソファに座ってる同僚の姿を見るたびに、「なんだよコイツ・・・」と心の中で憤慨していたのです。

この怒りひとつが見つかると次の別の怒りの場面が思い出されました。

そしてまた次の違う怒りの場面が出てきました。
次から次へと出てくる度に
「あ、あった ここにもあった またここにもあった」
といった次第です。


心の重荷が自分の中のあちこちに散らばっていた事を知りました。

私はあまり怒らない人だと自分で思っていました。 でも現実はあまりにも頻繁に怒っていました。

現実の自分は怒りまみれでした。

そんな事思ってもみませんでした。

そんな中、最初に思い起こした会社の同僚に対しての怒りをサムスカーラシュッディしてみました。

そして心の中に大きく強くわき上がってくるものがありました。

私が目にした同僚の態度と私の怒りはまったく無関係だと言う事です。

ただ自分が勝手に感じて、自分が勝手に怒っていただけだったのです。
私の中で起きてる事の全ては完璧に自分一人だけの出来事だとはっきりわかりました。

すなわち会社の同僚がどうしようとも、何しようとも私は怒ってしまうのです。

もっと言えば、会社の同僚が居なくても、相手や対象が無くても怒ることが出来るという事です。

今回は怒りの感情だったけれど、喜びも悲しみも全ての感情もこれらと同様なんだろうな と思えました。

この経験は本当に自分にとってはセンセーショナルで忘れられない出来事でした。

初日のサムスカーラシュッディが終わり閉じていた目を開けた時です、今日一日共に過ごした松田先生の顔がどうみても別人のように見えてしまいました。

文字通りの別人として見えて仕方がなかったんです。

頭では
「この方は松田さんだ」
とわかってはいるのだけど、感覚としては
「この人誰だ? 本当にこの人が松田先生だったのか?」
「本当にこの人と今日一日一緒に居たのか? 信じられない!」
という気分に見舞われました。

だからずっと松田先生を見つめていたのだけど、その感覚は一向に消える事がありませんでした。

いったいどうゆう事なのか理解出来ませんでした。まったく奇妙な体験でした

こうして書き起こしてみると とても楽しいディクシャ会でした。

またいつか参加出来る日を楽しみにしています。どうもありがとうございました。

 

 

R.Nさん   岡山 

 

私が松田先生のディクシャを受けることになったのは、難病がきっかけでした。

バガヴァンのことは以前大矢さんの「黄金時代の光」を読んでいたので、その存在は意識していましたが、当時は他力的方法論は自分の道ではないという思いがあり、クリシュナムルティに傾倒している時期だったので、訪ねてみようとは思わなかったのです。

しかし思いがけない病を得、自分の力ではどうにもならない現実に直面した時、なぜか再び「黄金時代の光」を手に取っていました。以前読んでいた「奇跡的な治癒」の話を思い出したからです。

どうしても一度松田先生のところへ行かなければならないという思いが内側でどんどん大きくなっていきました。

メールで連絡を取り、一日時間を取っていただき、じっくり話をすることができました。

そこは竹林に囲まれた閑静な場所で、バガヴァンとアンマーの大きな写真があり、とても落ち着いた気分になりました。

本棚に様々な書籍が並んでいましたが、まるで自分の本棚を見ているような不思議な感じでした。

先生ご自身の体験をお聞きしているうちに、バガヴァンへの確信がますます強まっていきました。もっとも「奇跡的な治癒」が起こるかもしれない、という期待は先生に否定されていましたが。

私の場合、随分長い間、いわゆる精神世界を渡り歩いてきました。その対象は文学から哲学、宗教と進み、実体験を求めてさまざまな組織や団体に所属しては、真理を求め続けてきました。

しかしその度ごとに失望と落胆を味わってきました。どんな集団であっても設立当初はうまくいっていても、その拡大と発展にともなって賛同者や信者が増えていくにつれて必然的に腐敗していき、あちこちに誤解が生じ、教えが都合よく捻じ曲げられていくのを目の当たりにしてきました。

「組織では駄目だ」という思いにかられた私は、以前から心の拠り所だったクリシュナムルティやラマナマハリシの世界にますます没頭するようになりました。

それまでの修行で、いわゆるクンダリニー体験を経験していた私にとっては、人知を遥かに超えた世界が実在しているという確信は揺るぎませんでした。その体験の延長線上に自分の求めるものがあり、そこに向かって個人で進むしかないと思っていました。

しかし心境はなかなか思うようには進展せず、内的混乱から脱却できないまま時が過ぎていきました。病を得たのはちょうどそのような時期でした。自分なりに病気に向かう心の整理はそれまでの修練によってできているつもりでしたが、その苦しみは思った以上に大きなものでした。表面的な悟りでは何の役にも立たないということを思い知らされることになったのです。

最初のディクシャの時、頭部に電気的な「気のかたまり」を感じ、穏やかなエネルギーの流入感とともに藍色の光が見えましたが、それ以上の体験はありませんでした。

その週の水曜日の夜に自宅でテレビを見ている時、頭に電気の帽子をかぶっているような、奇妙な感覚を覚えました。

その時にはよくわからなかったのですが、後になって松田先生が、毎週水曜日の夜、ご自身がディクシャされたすべての人へ遠隔でエネルギーを送られていることを知って驚きました。毎週水曜日の夜が瞑想の時間になったのは言うまでもありません。

その後岡山でのディクシャ会には欠かさず参加するようになり、さまざまな体験をさせていただきました。

感覚がいつもより鋭敏になったり、心の動きが以前より軽く感じたりということが度々起こるようになっていきました。

特に印象的な出来事を二つご紹介します。
一つは物理的な体験から始まりました。あるディクシャ会で先生と談笑していた時に、突然自分の両目が固定されて動かなくなってしまったのです。

眼球が自分のものではなくなった感じでした。自分がおかしな表情をしているのは自覚していましたが、自分ではどうしようもありません。

両目は先生に向かって大きく見開いたまま、まばたきもできない状態でした。思考が停止していくのが自覚できました。

かろうじて残された思考力で先生に自分の状態の実況中継をしていました。周囲の物が強烈な新鮮さをもち、何ともいえないヴィヴィッド感、リアル感があります。遠くにあるはずのものが、まるですぐ触れるような感じがするのです。

周囲の世界が黄金色に輝いて見えはじめ、やがて今までのようなしっかりとした形をもったものではなく、何か流動的で簡単に変形しそうな感じで知覚されました。その時の先生の顔は別人の顔に見えました。

もう一つはまったく心理的な体験でした。これもあるディクシャ会で起こったことです。

参加者の方たちが松田先生と熱心に対話をされていたのですが、それに耳を傾けているうちに突然、そこにいる人たちのマインドの動きが極めて明瞭に、克明に知覚されはじめたのです。

これは自分にとっては非常に衝撃的な体験でした。マインドが実に巧妙に立ち働きながら自己顕示し、自己防衛をしようとしている姿が手に取るように、恐ろしいほど完全に知覚されたのです。ことさら自分にとってショックだったのは、それがまさに今までの自分自身の姿に他ならなかったからです。「これがあなただよ」と言われている気がしました。

「マインドに操られている自分の姿を客観的に目の前で見せてもらっているんだ」という直感がありました。しかもこの体験は自分でやっているのではなく、明らかに与えてもらっているのだという確信がありました。

この他にも、自宅で瞑想している時、以前から憧れていた絶対的静寂を味わわせていただいたり、ディクシャ会で談笑している最中に同時に雨の音が聞こえ続けたり、病院の検査結果が悪くてもさほど動揺しなくなったりと、ディクシャを受けるようになってから、さまざまな変化を経験してきました。

確実に言えることは、苦しみや不安が著しく減少したということです。当初大きな動機だった「奇跡的な治癒への期待」もいつのまにか薄れてしまった感じです。

病気に対する不安が軽減されたからでしょうか。自分でも不思議なのは、これらのことが努力して起こったことではないということです。私はただディクシャを受け続けただけです。体験のすべてを通して、与えられているという感覚が強くありました。

最近では強烈な体験はほとんどなくなりました。ディクシャを受けても軽く心地よいエネルギーを感じる程度です。もちろんまだ病体ではありますが、以前ほど気にならなくなりました。総じて「楽に」なれているように思います。

マインドに振り回されることも減ってきているように感じます。あれほど好きだったクリシュナムルティの書籍も、ディクシャを受けるようになって一度も開いていません。ただ普通に、当たり前に生活をしています。生活自体もどんどんシンプルになってきました。穏やかな時間が過ぎていきます。

 

 

RNさん 

2009.1.4朝
目覚めとともに小さな小さな悟りが訪れた。

心が静かに内に向かっている。
自分の中でたくさんの謎が一気に氷解した。

これだこれだ、みんなが言っているのはこれのことだ。
だから言葉で言えないんだ。

老子が「道ノ道トスベキハ、常ノ道ニアラズ」といった理由はこれだ。

なるほどこれはどう努力しても言葉にはなるまい。
今までどうしてもわからなかったことが全部わかる。
これならすべて矛盾なく意味が通るし説明できる。

仏教の「空」とは何なのか。
禅祖師たちはなぜ「仏性は皆持っているが、磨かなければ現れない」と言ったのか。

盤珪禅師がなぜ「不生の佛心のみで生きよ」と言ったのか。

道元禅師が只管打座を説いたのはなぜか。
一休禅師がなぜあんなに破天荒な振る舞いができたのか。

なぜ導師、マスターなしでは悟れないと言われているのか。

大行禅師が「内なる主人空を信じて任せよ、捨てるだけ捨て、休めるだけ休め」と提唱されたのはなぜか。

良寛禅師が体現していた絶対の平穏の正体は何か。
禅祖師たちがどうやって弟子の見性を確認しているのか。

「内を見る」とはどういうことか。
なぜ世間で起きていることに心が動揺しなくなるのか。

なぜ執着やこだわりを捨てることが強調されているのか。

「内なる静寂」とは何なのか。

なぜエゴ・マインドが止まらないとわからないと言われているのか。

なぜ時間がなくなると言われているのか。

なぜクリシュナムルティは真理に至る道はないと言ったのか。

なぜヨーガは呼吸法を使ってマインドを停止させようとするのか。

なぜラマナ・マハリシは「私は誰か」を提唱したのか。
(以前さんざん取り組んだが「これ」はわからなかった)

なぜ神への自己放棄によって悟りが得られるのか。

ホ・オポノポノのいう「内なる神格」とは何なのか。

ヨーガマスターたちが漂わせている不思議な静寂の秘密は何なのか。

「すべてがアンマー・バガヴァンです」とはどういう意味なのか。

「すべてをアンマー・バガヴァンに委ねる」とはどういう意味なのか。

「あなたはありません」といっているのはどういう意味なのか。

一切がこれで説明がつくではないか!
マスターたちが何とか伝えようとしていたことはこれなんだ。

しかしよほど良い導師につかなければ、これはわからないだろう。

これがわかるには意識の全面的なシフトが必要であり、マインドがシフトしようとしている限り無理だろう。

巧妙な罠があまりにも多すぎるし、マインドの壁はあまりにも厚い。

いにしえの祖師たちも、これを弟子たちにわからせるのはたいへんだっただろう。

だからこそ「見る」こと、「目覚めている」こと、「覚醒している」ことがあれほど繰り返し強調されたのだろう。

しかもこれはおそらく失われ得る。

グルジェフが「みな機械であり、眠っている」といっているのがよくわかる。

よほど気をつけていないと、おそらく容易に眠り込んでしまうだろう。

これにしっかりと根を下ろし、完全に安住した人が「悟った人」なのだ。

今はきっかけをつかみ、悟りの世界を垣間見た状態に過ぎない。

しかしこれは大きな理解であり、前進だ。(真の世界では前進も後退もないのだが)

眠り込んでいるか、目覚めているかを正しく判別して、
再び眠りに陥らないように見張ってくれる導師、マスターの存在が極めて重要だろう。

この小さな小さな悟りは派手な神秘体験とは無縁である。

光の体験でもなければ、何かが見えたり、聞こえたりするわけでもない。

ただ「わかる」のである。

以前耳にした、ある禅師の言葉「一切が今のまんま、このまんまで完全に救われ切っとるんじゃ」が
完璧に「わかる」のである。

ではこの小さな小さな悟りは、
なぜこの人に訪れたのだろう。
これはつかみとったのではない。
明らかに「訪れてくれた」のだ。

以前さかんにありとあらゆる種類の「修行」に明け暮れていた。

しかしこれが訪れることはなかったし、数々の謎はまったく解けなかった。

今はまったく普通に生活している。

ただ縁あって松田敏彦先生のディクシャを受け続けている。

ただそれだけである。

「悟りは恩寵として与えられるものである」

その意味を感謝とともに深く味わっている朝である。

 

 

MSさん  新潟  

今朝はこちらは吹雪でした。

一冬に一度くらいはこんな日があるのですが、仕事があって車で30分くらいの所へ向かって出かけました。

朝9:00頃だというのに、 あたりは薄暗く吹雪いています。フロントガラスが曇り、内側ではなく外側が凍っているようです。もやもやの隙間からのぞいて、道を確認し、緊張しながら走っていました。

交通量の多いバイパスでさえこんなだなんて。

吹雪が強くなり、本当に怖くなってバガヴァンにお願いしました。

「たすけて バガヴァン!」
すると2,3分後でしょうか、雲がパカッと割れて、抜けるような青空が顔を出しました。

吹雪はおさまり、あたりは一変して明るくなりました。

あの深い青はバガヴァンとしか思えません。

ありがとうございます。私はなんて幸せなのか。大きな愛を感じました。

 

 

その一週間後に、気が置けない友人から、ハーブマッサージを受けているときのことです。

ほのかな明かりが灯り、心地よいBGMCD文殊菩薩的智慧)が流れる部屋で、清涼感のある生ハーブのスチームサウナに入り、体が芯から温まり心身ともにリラックスした状態で、うつ伏せになり施術を受けていました。

長い沈黙の時間が流れる中で、彼女がぽつり
「静かですね」
とつぶやきました。

私には、その言葉の意味が伝わってきたので、
「そう。今の心の中は静かなの。静寂って感じ」
と返し、なぜそのように感じたのか訊ねてみました。

すると彼女は、肩甲骨の間を施術していると、青いベールに包まれ、得も言われぬ心地よい空間に入り、そのまま肩甲骨の間に引き込まれるそうになった。

その直後、ハートチャクラが回転したのを感じて、息を呑むほど驚いてしまった。

仕事中であるので、意識を引き戻そうとして、とっさに出た言葉が
「静かですね」
であり、青いベールは、まるで青白い月明かりが射す静かな湖面のようなイメージで、静寂そのものであったと、興奮しながら話してくれました。

感覚の幅が広い彼女は、これまで施術中に憑依されることがあり、長く苦しんでいました。

初めて人から、その感覚とは真反対の心地よい静けさをもらったと、この不思議体験に驚いていました。

その日、家族全員が明るい気分で、笑いのなか一日を過ごせたと、後日話してくれました。

直接、デイクシャを受けたのは一人だったのですが、シェアしあえた二人の幸せな体験となりました。

 

 

NT さん 2009年2月(東京)

 

☆松田先生によるディクシャ体験談☆

◎その1.

《松田先生のディクシャと〇〇を受けるまで》

前橋のMさんのディクシャを受け、数々の素敵な体験をしました。(ここでは、省略)

体験は、ディクシャ後日も続いていて、

ディクシャ後日のある日、ある大天使のサポートがほしくて「大天使カード」を購入し、買って帰ってすぐに、大天使の名前「ラジエル」 と願いながら、カードをきっていると、カードが一枚、勢いよく飛び出しました。

拾い上げて見てみるとそれは、願っていた「大天使ラジエル」のカードでした。「ラジエル」が来てくれていることに感激し、カードの説明通り、夢に出てきてくれるようにお願いしてみました。

そして、「ラジエル」のカード全3枚を、枕の下に入れて眠りました。

すると、とても鮮明な夢を見たのです。

その時は夜ですが、夢の中では、真昼間で、私が寝ているその部屋には、太陽がサンサンと降り注いでいて、夢の中で私は、布団から起き上がりました。

そして、光りのような存在が私に、色々なことを文章にして教えてくれたのです。

私は、その存在と一緒に、その文章を声に出して読みながら、「こんなに詳しく、こんなに丁寧に教えてくれるんだー」と、感激していました。

が、目が覚めた時には、内容が何だったのか思い出せませんでした。ただ、「光」という言葉が何度となく出ていたような…?そして、夢の最後に、何故か岡山の松田先生が現れて、「私のディクシャと〇〇を受けてごらん。」(ディクシャの後がよく聞きとれなく〇〇と記載)と、おっしゃり、「はい、わかりました!」と、先生と手を握り合ってお別れして、目が覚めました。

私は、それから、松田先生のディクシャと〇〇が気になり、先生に5年ぶりにメールをしました。

それから、数日後、松田先生から、連絡を頂き、その月の東京ディクシャ会を知りました。

先生のディクシャは、受けたい!が、日にちはもう迫っていて、それに、最近私は、凄い方向音痴の、記憶力低下で、一人で東京に行くのをためらっていました。

駄目元で、友人のSさんに、先生のディクシャ会の話しをすると、「私も行きたい!」と、Sさんが言い、日にちを告げると、Sさんのお仕事のシフト制のお休みがピッタリその日と重なり、一緒に行けることになりました。

Sさんのお陰で、私は、無事、松田先生の東京ディクシャ会にとてもスムーズに、駅までの送り迎えもしていただき、行って帰って来れたのです。(Sさんと聖なるお導きに感謝)

 

 

☆その2.

(松田先生のディクシャ会での体験)

松田先生に5年ぶりにお会い出来る(夢では会っていますが)と、ウキウキ、ワクワク、少し緊張しながら会場へ向かいました。

会場に着くと、懐かしいお顔がにこやかに私たちを迎えてくださいました。

その後、松田先生と参加者の方の会話を聞いていたSさんは、涙を流していました。

「なんでかわからない。」と言っていましたが、本当泣くような会話の内容ではなかったと思います。

先生は、「もうすでに、サムスカーラが始まっていますね。」とおっしゃっていました。

初めのセッション、ハートの開花では、ハートが少し温かく感じたものの、これといって何の体験もなく過ぎようとしていました。

そんな時、隣のSさんが泣いているのに気付きました。 そして、そんなSさんのことを『何か体験しているのだな。何か感じているのだな。ハートが開いたのかな?きっと良いことに違いない、良かった、良かった、良かった…』と思っている自分がいました。

以前の私ならきっと、自分は何の体験もないのに、他の人が体験しているのを嫉妬していたり、自分と比較したりしていたことでしょう。

それが、人の幸せを素直に喜べる自分がいて、そんな自分に気付けた瞬間、更に喜びとなり、涙が溢れ出てきました。

人の幸せを心から喜べる自分がいる。それがとても嬉しかったのです。

次は、ディクシャでした。今回は、松田先生以外にも、お二人の方にディクシャをしていただきました。

ディクシャ中、アンマを強く感じていました。

ディクシャを受け横になって、しばらくすると、目の前に赤オレンジ色に輝く太陽のビジョンが現れ、すると、その太陽が、私のハートに降りて来ました。

そして私は、「太陽って温かいなあ」とそのハートで輝く太陽の光りと、温かさを感じていました。

そんな温かさを感じていたら

「この太陽の光りと温かさが、周りの人たちにも届いたらいいなあ。届けたいなあ。」という想いが溢れ、ハートの太陽の光りを更に放射してみました。

「そうだこの光をみんなにも届けていこう」と思っていると、今度は、真ん丸のくっきりお月様が太陽に折り重なるように現れました。

あまりの鮮明なくっきりさにみとれていましたが、月の向こう側には太陽があるのも見えて、「月と太陽って、同時に一緒に存在しているだなあ」と

そんなことを感じていました。

それから、次のビジョンが現れて、私の知り合い、友人の顔が浮かんできました。

私はその人たちの顔を見て、私を信頼してくれていた人たちが沢山いてくれたことに気付きました。

今までの私をそのまま受け入れてくれていた人たちに感謝があふれ、「私は変わる必要ないんだ。私は私でいいんだなあ」と思いました。

私は今まで、私をありのまま受け入れてはくれない、私を変えようと、教え導く人達ばかりに気が入って、
「私は変わらなきゃいけない。私のここがいけない。」とありのままの自分を認められず、心を矯正しようと努力し、そして、そういう人達に認めて貰いたく頑張っていた自分に気付きました。

心の中で

「私は私でいいんだ!私は私でいいんだ!私は私でいいんだ!…」と何度もこだまし、涙が溢れました。

私が私を受け入れ、認め、愛しはじめることが出来た瞬間だったのかもしれません。

先生が「カルキとアンマに何でもお願いしてみてください」とおっしゃったので、お願いのひとつに、「松田先生が、我が家に来てくれますように。」と心の中でお願いしてみました。

すると、昼食の時、お隣りに座れ、松田先生が「今度、群馬に行きましょうか?」とおっしゃってくれ、願いがひとつすぐに聞き届けられたことに驚き、感激していました。

次のサムスカーラシュッディでは、ひとつのことに集中出来なく、終わったものの、松田先生の、静かな感情処理のやり方が私には、合っていると思いました。

以前、カルキの手法ではないですが、とても激しい感情処理のセッションを受けたことで、自分に無理をして、逆にトラウマになってしまったことがあるのです。ですから、松田先生のやり方が私にはとても、リラックス出来て無理なく行えると思いました。

先生が夢でおっしゃった「私のディクシャと〇〇」の〇〇とは、このサムスカーラシュッディのことだったのだと思いました。

セッションが全て終わった帰り際、夢の中のように、手を握り合ってお別れをしました。

帰りの電車の中で、「今日のディクシャ体験は、太陽が出てきたり、月が出てきたり、何だかマヤっぽいなあ~」とふとそんなことを思っていました。

実は、この松田先生のディクシャ会に参加する10日前に、家で、静岡の奥義学校の講師、小櫻ご夫妻を招いてのマヤのワークショップを開いたのです。その日は、偶然にも、満月だったので、夜の部として、満月儀式ワークをし、翌朝は、広い芝生の丘の上で、太陽瞑想をしました。

「マヤのエネルギー受けているのかな?」と

家に帰り、一息ついて、テレビを付けると、画面には、何度か写真で見覚えのあるマヤのピラミッドが映っていました!びっくり☆

 

私は、あれから、ありのままの自分を受け入れられるようになってきたのを感じています。

松田先生ありがとうございました。

カルキとアンマ、マヤのスピリットに、そして、いつも私を真実へと導いてくれているすべての存在に、感謝いたします。

 

その3《松田先生のディクシャ会後日体験談》

松田先生のディクシャを受けた数日後、ある老人ホームでの出来事です。

老人ホーム入居者の方のマッサージをしていた時、側にいたあるおばあさんが、凄い形相をして何かに対して怒っていました。

車椅子から立ち上がろうとしては、他のおばあさんが必死に止めていました。

その様子を目にした時、「ディクシャで受け取った太陽を使って、ヒーリングをする」と、突然脳裏に浮かんだのです。

思うままにヒーリングをしていますと、すぐにそのおばあさんは、落ち着き、ウトウトと居眠りを始めました。

その様子を見ていた介護師さんが寄って来て、「今何かしていましたよね?何をしていたのですか?この方いつも車椅子から立ち上がろうとしては、転んで大変なんです!」

と言われたのですが、その場では、「ちょっとアロマを…」と言いました。介護師さんは、「へぇー、香りって凄いんですね!こんなに落ち着いて…」とすっかりアロマに感心していました。

後日その介護師さんにお会いしましたら、「アロマで真似したけれど駄目だった」と言っていました。

家に来てくれたお客様に、その太陽ヒーリングをしますと、やはり寝てしまう方が多い中、涙を流す方もいました。

ある方は、「ヒーリングもしておきました。」と告げると、「そうですか…」と少し無言になっていたので、どうされたのかと思いましたら、こう話してくれました。

「実は、私は神様とか、全然信じない人なんですけど、何かやってもらっている時に、『神の み心のままに』という言葉が浮かんで来て、『何でだろう?』と不思議に思っていたのです。」

と教えてくれました。

その方が、受け取ってくれた『神の み心のままに』この言葉を胸に、私も何か皆様のお役に立てることがあれば良いなと、日々カルキに願っております。

カルキのこともあまりよくわからず、とにかく自分が救われたいと受けていたディクシャですが、自分が幸せになると、人の幸せも自然に願えるようになるのですね。

幸せへの転換、多くの方に、ディクシャを体験して頂きたいと思います。

 

ここに記載した他にも、面白い夢や、面白い体験など続いております。

 

日々幸せを感じております。

例えば、=化粧水をつけている= ただそれだけで、とても幸せが溢れるのです。

シャワーを浴びる、お風呂に入る、食事をする、etc…普段何気ない生活のひとつひとつがとても幸せな気持ちになるのです。

いつも気にもとめない見過ごしてしまうような出来事さえ、とてもリアルに体験することもあり、もの凄い感動を味わうこともありました。

 

何処からともなくやってくる「幸せだなあ~」という‘風’が、ふと吹いて来ては、すっぽりまるごと幸せの風に包まれてしまうのです。

ありがたいことです。

 

カルキとアンマに、マヤのスピリットに、聖なる存在全てに感謝!

松田先生はじめ、ディクシャをしてくれた方々、カルキを通じて出会えた方々に感謝!カルキを教えてくれ、いつも大切なメッセージをくれるYさんに感謝!

マヤを教えてくれた小櫻ご夫妻、マヤを通じて出会えた方々に感謝!

家族、友人、周りの方々に感謝!

今まで出会った方々、これから出会う方々、皆様に感謝!

家族、友人、周りの方々に感謝!

 

マヤの魔法の言葉

「あなたは私。私はあなた。」

マヤの教えの基本

「人生常に、幸せであれ!」

 

 

 

 

                             







 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュリムルティ
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