E.S.さん体験(岐阜2008.12.27)
今は、とにかくディクシャを受けつづけてよかったと思っています。
3ヶ月くらい前までは、今の自分を想像すらできませんでした。
プレゼンスというものをよくわからないまま受けていました。
松田先生のところにきてプレゼンスの目覚めというのがあったのですが、最初の頃は、とにかく自分の苦しみをなんとかしたいと、その思いだけでせいいっぱいでまわりのことは何も見えていませんでした。
プレゼンスについてもなにがなんだかわからないまま、語りかけてみなさいと言われたのでそうしてみたら、本当にここにいるでしょうと答えが返ってきました。
2回目に参加した時は言葉でうまく言い表せないのですがプレゼンスの方が、とてもたくさんいつも思ってくださっているということがつたわってきて心がいっぱいになりました。
その頃からときどき会話するようになりいまはいつでも話しかけると答えてくださいます。
最初は本当なんだろうかと半信半疑でした。
でもだんだんと信じられるようになりました。
話して下さるアドバイスは本当に奥が深いということが分かってきました。
助けられたこともあります。
冬至の日にかぼちゃを煮ようと思って包丁で切っている時にあやまって左親指の爪の上を包丁でスパッと切ってしまいました。
切れてしまったと思いこわかったのですが、その時プレゼンスのかたが包丁の角度をかえてから大丈夫だとおっしゃいまいた。
爪を見たら切れていなかったのです。
爪のはじのところが少しだけななめにきれていましたがたいしたことはありませんでした。
思いきり力をこめて切っていたのでアレッていう感じでした。
そして本当なんだなあと思いました。
こんな小さなことがつみかさなって今は、プレゼンスのかたを本当に信じています。
もちろん苦しみから救ってくださったのもプレゼンスの方です。
今は、毎日、プレゼンスの方と一緒です。
あたりまえにあると思っていたものすべてがあるだけでありがたいと思うようになりました。
アンマ・バガヴァン様、そして松田先生、ディクシャにかかわっている方々すべてに感謝します。
どうもありがとうございます。
TOMATOさん 岐阜 2008.1月
1月のデイクシャ会は、一日体験を共にする中で、初対面同士のはずが、まるで旧知の仲のような親近感が感じられ、終始、笑顔があふれ、
和やかで優しい雰囲気の漂う会だったと感じています。
本当に、ありがとうございます。
Bさんのおかあさんは、翌日
「遠路、行ってよかった。本当に価値ある会だ。」
と喜んでBさんにお話されたようです。
デイクシャ後は、頭がすっきりとした状態が今も続き、長年、悩みの種の不眠状態が、その日は昼夜ぐっすり眠れたようです。
また、松田先生とわたしの言葉のやり取りが、なんともおもしろく愉快で楽しい。
とB家の皆さんは、感じておられるようです。
ぼけとつっこみでしょうかね。
それはさておき、いよいよ本題。
今を語るには過去にさかのぼって語りたい気分なので、恐縮しますが… これまでの体験について報告します。
2006年3月にデイクシャを知り2年になろうとしています。
これまで12回デイクシャを受け、そのうち7回が松田先生のデイクシャとなります。
その年の6月に、神戸で初めて松田先生のデイクシャを受けさせていただいたのですが、そこでの出会いが、私にとって強烈な体験となり、今日に至っています。
先生の瞳は深く、吸い込まれるような感じで、私の目を離しませんでした。
多くを語らなくても、私を分かってくださる方にやっと出会えたーという喜びが湧き出て、どっぷりはまってしまいました。
その会には、誘われるまま参加したのですが、そのときの私は、2日間の体験で、自分のハートが何を感じるか、感じるままに楽しもうとだけ思っていました。
起こることすべてをそっくりそのまま感じようと、その一点だけに神経を集中させていました。
初めてのデイクシャでハグされたときに、思わず湧き出た感情があったこと。
先生の気配を感じただけで、自分の意識とは関係なく、涙がとめどなくぽたぽたと流れたこと。
横になったときに、大きな温かい手で背中を抱え込まれた感じがしたこと。
などの体験を通し、
「何かに頼りたかったんだ」
という心の奥底に眠る寂しさに気づかされ、
「この私を包んでくださる存在がある」
「一人じゃない」
ことを感じ、有り難くて有り難くて、嬉しくて嬉しくて、ただただ涙があふれたのを、今でも昨日のことのように覚えています。
喜びと快感そのものでした。
その後も、目の前で展開される悲喜こもごもの現実のなかで、のど奥にずっと不快感としてあったものが、9月に3回目のデイクシャを受けた後、まるで憑き物が落ちたかのように、明瞭感と爽快感を感じました。
そのときに、自分が歩む道を再認識することができ、今できることを誠実に、役割を果たして生きたいと揺るぎなく思う今日につながっていると感じています。
生きているうちに、この道に出会え、お導きいただいている毎日に気づけたことを、本当に嬉しく思うと同時に「いつもいつもありがとう。」と感謝の念で一杯でいます。ひたひたと、にんまり嬉しい気分に満たされている今、心は、静かに波打つ『静寂の湖面』といったイメージの中にいます。
MNさん
私は2005年12月に21日間コース、2006年12月に上級コースに参加しました。
その間に沢山の体験をしました。
アンマ・バガヴァンにハグをしてもらったビジョンや、アンマとバガヴァンのエネルギーがハートに飛び込んでくる体験など様々な体験をしました。
それは素晴らしいもので、私は喜びにふるえ、有頂天になりました。
しかし、その喜びは長くは続きませんでした。
苦しみがやってきました。
乗り越えても又次の苦しみが来ました。
乗り越えても、乗り越えても苦しみは次々とやってきました。
そしてとうとう私は「もうバガヴァンもデイクシャもいらない。これでは今迄の宗教やスピリチュアルなセミナーと同じだ!」と、叫んでいました。
でも、そこから新しい始まりがありました。
ワンネスインストラクターの仲間が松田先生の岡山での合宿に誘ってくれたのです。
松田先生のデイクシャ会や勉強会には2006年5月頃より時々参加していました。
そして、その度にいろんな気付きを頂いておりました。
それで、2008年3月の合宿に参加することにしました。
その合宿の中でデバインプレゼンスから、メッセージを受けました。
『良い師に出会いましたね。
ついて行きなさい。
間違いのない道です。』
実は私はバガヴァンを知る20数年前、宗教を転々としていた時期がありました。
そのある時期に「お告げ」をする役目を担っていた事がありました。
勉強もしていなく。意識も低い私から、いきなり言葉が出始め、神か霊かも分からない言葉を「神様のお言葉」として、信者の方々に伝えられているのを知ったとき、私は恐ろしさと不安で一杯になりました。
そして、耐え切れずそこから逃げ出し、宗教から縁を切りました。
ところが、デイクシャを受け始めてから、私の心の中の独り言に対して、返事が来るようになりました。
私は以前の事を思い出し、心の中の独り言を無くす様に努め、意識を合わせないようにしました。
でも、うっかりすると返事が来てしまいます。
インドのコース中にプレゼンスの話があり、担当のダーサジーにこの事を話すと「プレゼンスです。絆を深めなさい。」と、言われました。
それでも、なかなか信ずる事が出来ず、二度目のインドのコースでも、ダーサジーに問うと「プレゼンスです。」と言われました。
信じたいけど、信じきれない。
そういうゆれ動く心の状態のときの、岡山でのプレゼンスのメッセージだったのです。
『良い師に出会いましたね。
ついて行きなさい
間違いのない道です』
私はあえて聞きました。
「良い師とは、松田先生のことですか?」
『バガヴァンあっての、松田先生です。バガヴァンと松田先生は一体です。』
その後4月ごろより、続けてメッセージが出るようになりました。
松田先生にその事を相談すると、「出る言葉をかいてみたら。」と言ってくださったので、書き留めてみました。
それはその時の私の心の状態にあわせ、教えであったり、励ましであったり、お叱りのメッセージでもありました。
その内の一つを書いて見ます。
『誰に伝えると言うものではないが、己の精進の為に役立つと思う事を、
与えていこうと思う。これからの道は険しい。しかし、喜びの道である。
神の与えた通りに行ずれば、自然と神の願いを行ずる事となる。
それは神あっての人、人あっての神、お互いに助け合うことである。どちらが偉いと言う事ではない。それぞれの役目に応じて進むことにより、道は開けるのである。』
この時、私は、あまりの有難さに涙がとまりませんでした。
こうしたメッセージを頂いているうちに、私はとても心が軽くなっている事に気付きました。こだわりがなくなっていたのです。
今迄、心に、いろんな囚われがありました。
“ああしてはいけない。こうしてはいけない。
こうでなければならない。こうしなければならない“
それがみんな消えました。
プレゼンスはいつも言ってくれます。
『いつもあなたのそばにいます。
いつもあなたの味方です。
いつでも 語りかけて下さい。
苦しみも 悲しみも 喜びも共にあります。
わたしはあなた。あなたはわたし。
ワンネスです。』
私達はいつも、アンマ・バガヴァン、デバインプレゼンスに見守られ、導いて頂いております。
どれだけ有難い事であるか、”感謝”と一口では表せないほど、大きいものです。
永い間、夫のことで苦しんできましたが、その苦しみも嘘のように消えました。
争いは無くなりました。
無理だと諦めていた2008年10月のレベル2も参加出来ました。
夫からインドに出発の際には「気をつけて行っておいで」と夢のような言葉も貰いました。
2008年レベル2では堅いブロックからも解放されました。
今私は、日常生活も内側の自分も平穏です。
この先の不安はありません。
この平穏が当たり前になり、感謝する事さえ忘れている事があります。
最近プレゼンスから、『いま、入り口に立ったとき』と言われました。
この先、何があるか分かりませんが、アンマ・バガヴァン、プレゼンスは見守り、導いてくれると、信じています。
ここまでたどりつけた事に、アンマ・バガヴァン、プレゼンス、そして、松田先生、地区のリーダーの纓田さん夫妻、インストラクターの仲間のみなさん、夫、家族に限りない愛と感謝を捧げます。 合掌
N.K.さん (2008.4.5 大阪 )
とても素晴らしいディクシャ会でしたよね!
自分で自分の状態というのはわからないので、Kさんに感じていただけた事がとても嬉しかったです。
実は、精妙なエネルギーについては、午前中のディクシャの時、私は松田先生から強く感じたんです。
とてもパワフルでした。恐らく K さんが感じられたのと同じなんじゃないか なあと思っています。
その時のエネルギーの感じを思い出すと、胸がドキドキしま す。
何だか恋してるみたいな感じですね、こういうのも至福なんでしょうか?
それから、来られていた女性は、本当に精一杯なんだなあ、と感じました。
中身がいっぱいだから、吐き出させてあげたいなあ、と感じていました。大きなお世話になります ね。
午後からのサムスカーラシュッディは、本当にシンプルに、かつ、丁寧に説明して戴いて、すごくわかりやすかったし、実際の体験もとても具体的な手応えがあり、 家に帰ってから自分が満たされているのがハッキリわかりました。物凄い充実感です。
調子に乗って、その夜もサムスカーラシュッディをやってみました。
そしたら今日も充実感でいっぱいです。
松田先生の会は関西ではそんなに長くないのですね? ちょっと驚きです。
私の感想なんてたいしたことないですが、多分、あそこに居た方全員、『素晴らしい会だった』と感じられてるんじゃないでしょうか?わかんないですけどね。
先生のやるサムスカーラシュッディは本当に、確実だなあという感じです。
ほんとにサッチタナンダ-になれれば…楽しみです。それと、松田先生のすごく静まった雰囲気が好きです。
それから Kさんからもとても穏やかで温かい感じ を受けます。また、今度を楽しみにしています。
KFさん 11月 東京
他人に対して身構えていたのがゆるんできた。
こだわりがなくなってきた。
”その方の状態によって、その在り方しか無理だ”とか考え方が変化した。
反応で動くことが少なくなってきた。
座っている座ぶとんや畳にも、瞬間ですがすごいありがたさを感じました。
身体的には頭が重く軽く痛みがあります。
お腹が苦しいです。
思考が静まっています。
自己からの開放はこの自分からは決してなしえないという絶望感があって、恩寵によってそこに導かれると知った時は、嬉しかった反面、全て現在に関わっていることも恩寵なのでは・・・という思いが現在はあります。
悟りのみが恩寵だと思っていたのです。
全ては神々のみ心のままに・・・真理はパラドックスというお話に理屈なく喜びを感じました。
色々本日はありがとうございました。
YIさん 東京
昔は好んで行っていた心理的、肉体的に負担が強いことができなくなってしまいました。もちろん、仕事や義理でやらなければならない時もありますが。
それはどういうことかと言うと、「ああ、この人はこういうことを考えているんだな」、「この人はこういうことが言いたくてこう言ってるのかな」とか、自分の解釈が入り込んでいたのです。つまり、人の話を真っ直ぐに聞けていない状態でした。しかし、ディクシャを受けた後、すごく体が軽くなっていたのと同時に、私の内面にも変化が現れていたことに、後になって気づきました。
ディクシャの後、インドに行ってきた人達の体験談を伺う時間がありましたが、このときに、初対面の人達のそれぞれの体験談やお話がごく自然に、ストレートに自分の心に入ってくるのを感じました。
私自身の価値観やジャッジというフィルターを介さずに、ダイレクトに入ってくるという感じがしたので、共感や感動がより深まりました。
今までの私は、映画の批評家がある映画について、自分の物差しでストーリーを捉えて、「これはよい」、「これはダメ」と評価したり、批判したりしている、それに近い感じだった気がします。
ですので、他人の話を一つのストーリーとして淡々と聞く感じではなく、自分のことのようにリアルな感動があったのは、自分でも意外でした。
また、このことは「ありのままの自分を認める、受け入れる、許す」ということと、同じ方向に向かっているのだと思いました。
それは頭では理解してきたことですが、この時は頭ではなく、確かな感覚としてよくわかりました。
私は今まで、自分を大きく見せたい、人から認められたいと思うが故、頑張り過ぎてしまうところがあります。
また、人から好かれたい、良く思われたいという思いも強くあります。
そのため、「こうしてはいけない」、「こうしなきゃいけない」というような自分で自分を一つの「理想」という型に縛り付けるようなことをずっとやってきました。
そのため、自分の頭と心と体がバラバラの状態になってしまうことがよくありました。(そういう時は、決まって私は体に変調が出てバランスを崩してしまうのですが・・)
心は傷ついている、しかし頭ではそれはいけないことだと考えている、そして頭の考えで強引に納得させようとする。・・・悲しみ、怒りなど、湧き起こってくる感情はすべてそうでした。
ある意味「計算」であり、自分を「理想の人間像」というレールに強引に乗せようとするような行為でした。
しかし、本当の私はでこぼこに曲がりくねったレールなのです。
私はディクシャの後で、別の話をしているときに、ある「悲しみ」の感情が沸き起こってきました。
今までにもその話をして、何度となく沸き起こってきた悲しみです。
しかし、今までは「私は大丈夫」、「悲しくない」と考え、そこを頑固なまでに譲らず、自分に言い聞かせて、意識を別の方向に向けてきました。
「これをしてはいけない」、「こうすべきだ」、「周囲から認められる人間でなければならない」、・・・などの様々な無意識の信念が、私という人間を、よりシンプルで素直な
状態から遠ざけていたのかも知れません。
(しかしこれは今になって気づいたことで、それまでは自分がそういった信念にコントロールされているということにすら、気付きませんでした。)
でも、考えないようにすればするほど、モヤモヤは残っているので、その話が出ると、そのモヤモヤした悲しみはまた燻り始めます。
しかし、ディクシャの後で感じた「悲しみ」は、今までのパターンとはやや違っていました。意識を他に向けようとしたり、ごまかそうとする力すら沸いてこなかったのです。
だから、悲しみの感情を避けることができず、それを真正面から受け入れるしかないような状態でした。
その悲しみは、夜の寒い海に沈んでいくような、自分の存在そのものが消えてしまいそうな悲しみでした。
私は相手に気を遣ったり、何かの言葉を発することすら忘れていました。(というか、できませんでした。)私はその相手に、「それを言われてすごく悲しかったです」と初めて伝えました。相手からは、それは前から気づいていたと言われました。
しかし、私はその「悲しみ」の感情を素直に受け入れた、そして相手に対して認めた自分が新鮮であり、そんな自分を好きだと思いました。
「自分はこうあらねばならない」という、今まで自分を縛ってきた価値観が、ディクシャの恩寵によって少し消えたのかも知れません。
また、こうありたいと頭で描く自分と現実の自分と、現実の自分の内側とのギャップにもはっきりと気づきました。その夜、布団に入って横になった後も、その悲しみはもっと大きな波として押し寄せてきて、私は仰向けになったまま、涙を流しました。
涙は流れても流れても止まらず、嗚咽も止まりませんでした。自分が寝ているこの布団もろとも、沈んでいくんじゃないかと思うほどの悲しみでした。
相手に言われた言葉は、ただの「言葉」であって、そこに悲しみがあるわけではないと思います。
悲しみは、私が過去に傷ついたトラウマや、自分の被害妄想が勝手に作り出した「感情」にほかならないのだと思います。
「いつも一番大切な人は、なぜか私を切り捨ててどこかへ行ってしまう」、
「私はこの後もずっと、愛している人から愛されることはないだろう」、
「今のこの幸せがすべて消え去ってしまう」、「私は認められていない」、
「私には価値がない」、「私がただ一人残された孤独」、・・・
ほとんどがエゴの、醜い、独りよがりの、ネガティブな思考ですが、でもその感情から逃げずに正面から向き合えたことは、私にとっては成長の一歩なのかな?と思います。
ネガティブな感情が湧き起こってくるなら、逃げればそれはどこまでも追いかけて来ること(繰り返すこと)は過去の体験で分かっていますし、ネガティブとしっかり向き合うことも、一時的なプロセスとしては必要なことなのかも知れないと思いました。
私は4月29日に松田先生のディクシャを受けて、初めて本当に意味でのスタートラインに立ったのだと思っています。ここから私の本当の旅が始まったような気がしています。
たいへん長くなりましたが、読んでくださってありがとうございました。また、松田先生にお会いできる日を心より楽しみにしております
YKさん 東京 '07 12
(12月16日記分)
こんばんは。今日も素晴らしいディクシャ会でした。ありがとうございます。
今日のサムスカーラ・シュッディは強烈で、ボケ~としてたので感想文を書ける状態ではありませんでした。
何が強烈だったかと言うと…
数を数えて、アンマバカヴァンと唱えると同時に、頭だけに強烈なエネルギーが纏わりつき、意識を保とうとしても、あっと言う間に寝てしまうのです(笑)
それも一瞬で落ちて、深~く寝ました。
なので二回目は、意識を保つ事にわざと(笑)トライしましたが、「ひゃっ!エネルギーが来た来た」と感じるやいなや、又一瞬で落ちてしまいました。
それでも起きた時はスッキリしてるから、ホントに面白いですね。自分ではな~んにもやる必要ないって、つくづく思います。
掃除さえ、勝手にしてくれて、何が掃除されたかを知る必要もないなんて、こんなに楽ちんなものはありません(笑)
ディクシャ会では「体験」と言う言葉を皆様言いますが、私は毎日「体験」の連続です。
日常の生活そのもの…。
思う事、見るもの、聞く事、出会い、感情、あらゆる全てが「体験」だと感じます。
なので、逆説的ですが「何もないと言う体験」の意味も、分かるようになりました。
最近私は、あまりプレゼンスを意識しなくなりました。
以前は、プレゼンスプレゼンスと思っていましたが、今は、プレゼンスはいて当たり前で、プレゼンスが何でも知っているので、安心して迷うことも悩むことも出来るようになりました。すぐに道が示されますから。
今はやりたい事も、行きたい所も、会いたい人も、私が考えた瞬間プレゼンスが選んで連れて行ってくれてるように感じます。
何故なら、何処に行っても、誰に会っても「あ~、これは決まっていた事なんだなぁ」と感じるからです。こんな事ばかりだと、とてもじゃないけど「自分」の意思だけではないと思わざるえないです。
私は以前から「私にハッキリ分かるように働いてくれ」と願っていたせいか、とても分かりやすく「納得」出来るものを与えてくれます。
それが一番有り難く、助かってます。
広島へも行く予定でしたが、突然「山中湖に行こう」と閃き、従って素晴らしい体験がありました。
そんなわけで、マインドが立てた計画は、heartにより変更を余儀なくされますが、楽しんでいます。
そう言えば…確か前回先生が、何の話しの時だか忘れましたが、確か内側の変化とかの時期の話かなぁ。
「それは私達が決めることではありません。決めるのはこちらの方々です」
と、キッパリ言い切ったのですが、その瞬間、私の中でコントロールみたいなものを手放せました(自動的に起こっただけです)
あれ以来、今の自分を受け入れる事が深まったようです。
ありがとうございます。
(12月19日記)
前回、「プレゼンスはいて当たり前」云々等と書いて送信しましたが、とんでもない思い違いをしていた事が、今日分かりました。
「居る」のは当たり前なのですが、それを深く感じる事を忘れていたのです。今日、私は仕事を中断せざるえない位泣きました。涙が溢れて止まらなくて…
「愛したい」と言う気持ちが溢れてきました。
悲しいとかの感情はないのですが「愛したい」と言う想い、欲求だけが溢れてきて、そして私は「愛」が分らないと思った時、プレゼンスに祈りました。深く深く祈りました。すると、沢山の体験を与えてくれました。
瞑想をしていたのですが、額に青い光の玉が入ってきて「地球」のヴィジョンを見せられました。身体が熱くなり涙が出ました。
その時私は「長かった~。私はもう終わりにしていいのだ」と納得しました。「帰る場所」が分かったと言う安堵感に包まれました。
そして、これからもプレゼンスに語り続けようと、仲良くしていこうと改めて思いました。共に生きたいと強く感じました。
「終わり」の意味は分かりませんが、追求する気もありません。今とても幸せです。