私がゴールデンエイジ・ムーヴメントを初めて知ったのは14年ほど前のことになります。

大矢さんが連絡をくれましたが、仕事で忙しかったこともあって、バガヴァンの写真なども一年ほどそのままにしていました。

一年経ったころ、大矢さんに「あの運動はどうなりましたか? あの神様はどうなりましたか?」ときいたところ、体験文を送ってきてくれました。

その体験文をずっと読んで、中に二つ三つばかりは気に入った体験がありました。
しかし、奇跡ということについては、例えば死んだ人が生き返るという話まであるわけですが、それを読んでも、どこの宗教にもある話のようだと思いました。

極端にいえば、お餅を食べていて喉につまらせて死んだ人があとで生き返るということもありますから、こじつければいろいろ理屈がつくという風にも考えられたわけです。

しかし、心理的な体験の部分については、私も長年TMという瞑想をしてきていましたので、自分がすごくなじんだ体験や、ああこういうのはいいなあと思えたような体験などが、幾つかありました。ただ、それ以外はまあどこの宗教でもありそうなお話のように感じていました。 

私は大矢さんが送ってきてくれた体験談に驚いたのではなく、最後に、当時37節までだったマハワキヤ(バガヴァンの言葉)に感動させられたわけです。

分からないところと分かるところとがあります。

分かるところでは、気に入らなかった部分が一つありました。「女性を大事にしなさい」という部分です。何しろ私は亭主関白ですから……。

そんなことをいろいろと考えても、全体を否定することはできませんでした。

分かるところはずうっといいことばかり書いてあるわけです。分からないことも書いてあるのですが、分からないことでも、自分に今分からないというだけのことであって、何か大きな意味があると感じたわけです。

大矢さんに、この方の運動には、つまりあなたの運動には全面的に協力したいと連絡しました。今でもはっきり覚えていますが、ちょっと格好良く、ちょっと頑張って書いたかなあというのがありましたが……。

ですから、私はバガヴァンの言葉を読んで感動させられたために、インドに行ったわけです。 

このマハワキヤについては、今は63節まであり、英語の冊子は出ていますが、きちんとした形で邦訳されたものはまだ表に出されていません。昔、大矢さんや私が一部翻訳したものもありましたが、やはり厳密に訳されたものでないと読み違いを起こさせる可能性があるということで、そのままになっています。

発想が人によって違うわけです。私は表現したものの中を読むべきだと考えますが、立場の違いによって、表現上の少しの違いが問題だと考える人もいるわけです。

いろんなセンスの方がいるわけです。
一字一句きっちりやらなければいけないという人もいますが、私は中身がわかればそれで良いではないかという考え方をする方です。筋が間違えなければそれでいいし、納得するということは読者本人の中でそれが生成する以外ない、と考えるわけです。

体験する以外は納得する方法はありませんという考え方です。

私自身の言葉は乱暴ですし、いい加減なことをいいますが、簡単にいえば、そこで見て感じています。

人については、その人のキャラクターは生かすべきですし。その人の人生ですから、他の人がとやかくいうことではない。段々そういうことが分かってきました。

しかし、その当時は分かっていませんでした。自分だけ分かっていれば良いと思っていました。「人のことなんか……。」と思っていました。

今はますますそうです。私は自分のためにしかしません。自分だと思っている部分があります。そこへ入ってくる人にしか興味がありません。中に入れようとはしません。

当時は「そうしなければ(人のためにしなければ)駄目だよ」と人にもいわれました。

「努力しないと、PRしないと……」「良いと思うんだったらこうしないと……」「先生努力が足りません」というふうにいわれました。

それなりにしましたけが、そういわれて、電話をかけて人を集めますと、仕方なしに皆さん来られますが、放っておくと皆さんすぐ行ってしまいます。

インドから帰ってくると、また集まって来られる。それで一ヶ月二ヶ月経つとまた引いてしまわれます。過去はそういった状態を繰り返していました。

私なりに努力をしていたわけです。ですが、あいかわらず努力というものが実を結ばないままに過ぎました。

2003年の10月に帰ってきたとき、今度はこのパターンが変わると思って期待していました。すると前ほどは激しくなかったのですが、やはり以前の状態に近いことが起こるわけです。

こんな状態が繰り返されるのは、これは自分ではやるなということだろうか、と思いました。
それで、もし誰か協力してくださる方があったら、それを大事にするべきだと考えるようになりました。結局私は何もしないほうがいいらしいのです。

自分で、こうと思っていてもそれは実を結ばない。だから、周りから支えてもらうしかしようがないという状況です。

私は、いろんな価値の人がいるということが認められないタイプです。だから自己中心的です。エゴイストです。それでもバガヴァンは大事にしてくれるわけです。楽です、認めてもらえるということは……。そういうモデルとして私はインドに呼ばれたと思っています。

2003年の正月ころに、日本に悟りを伝えるためにはモデルがいるから、あなたがた3人が来なさいといわれました。(注:松田敏彦、大矢浩史、横山滋朗の3人)

そして、夏から秋にかけてインドに行きました。

悟りを伝えるためのモデルとは、どういうことか分からないんですが、私なりに考えた結果、バガヴァンの教え(マハワキヤ)の中にある

「私を単に知るだけでは不十分です。私を個人的に知る必要があります。私を個人的に知るということは、悟ったも同然です」
という言葉のことだ、と思いました。

バガヴァンは私に対しては、最初から運動を広めるためだけにではなく、ずっと変わらず、個人的に接してくれています。

私は何でも好きな質問をします。お願いもします。娘が歌が好きで音大に行きたがっている。向いているんでしょうかどうでしょうか、ときいたところ
「ちゃんと勉強をしていますか?」
と反対に質問されました。私は、
「今はまだ、一所懸命やっていません」
といいましたが、実はその
「ちゃんと勉強をしていますか?」
という質問自体が答えだったと後でわかりました。

娘は二年浪人しました。一年目が過ぎて、二年目になると本人もいらいらしてきます。私がこの子のためにしてやれることは何かなあと思うと、ホーマぐらいしかない。ホーマをお願いして、親としてはできるだけのことはしたわけです。

このころになると、本人は相当がんばらなければならない状況になっています。この時、
「一所懸命がんばっていますか?」
という状況が整ったわけです。

それで受けました。私は通ると思っていました。本人は真剣です。本人は自信がなかったようでしたが、一次が通って、二次が通って、良い成績で受かりました。二年前の
「本気で勉強していますか? 本気で勉強すれば受かりますよ」
というのが答えだったわけです。

そんな個人的な質問をすることは、ご遠慮したくなるようなことですが、私にはそうさせてくれるわけです。バガヴァンの私に対する接し方は最後までこういう風です。この4月にお会いしたときも変わりありませんでした。

大矢さんもいっしょにいて、この運動のことについてお聞きしていますので、私たち両方に関して、大事なこともいわれますが、私自身については個人的な関係であるということがすごく大事だということを表現してくださる。

内なる存在ということはそういう関係であるということですね。

みなさんは、バガヴァンに物理的な時間をとってお会いするということとか、お願いするということはできないわけです。だから私は、バガヴァンとの個人的な関係のモデルとして働けばいいのではないか、と考えております。

こういう経過ですから、自分がエゴイスティックであるということに全く抵抗がなくなりました。いつも後ろにバガヴァンがいてやってくださるわけです。

例えばOさんの場合は体験的にはっきりしておられます。

困ったときに私にメールをくださると、半分くらいなくなるとおっしゃる。

質問に対して、私が返事を書くと、本人は何で悩んでいたのかわからないといってこられる。

ああ、やっぱりバガヴァンは言った通りにしてくれているんだということで、これは私には大変励みになりました。

もうそろそろ三年になりますが、2003年の10月に帰ってくるとき、バガヴァンにお会いしました。

そのとき、バガヴァンが

「今からあなたがどんな世界に行こうと、私があなたの面倒をみます」

と言ってくれました。

この言葉も、私が皆さんを代表して聞いているだけで、皆さんに対しても同じことです。個人的にバガヴァンに向いた方には全部面倒をみてくれるといっているわけです。

ですから、Oさんのようなお話をうかがうと、要するに質問などで私に向かうということは、そこにバガヴァンがちゃんと構えているわけですね。そしてちゃんとその方に応じた答えをくれるわけです。

ですから、向くだけで楽になるはずなのです。

私が何かすると、それがバガヴァンの答えとして、もっとはっきり出てきます。すごくありがたいと思っています。

そして、普通はエゴイスティックという言葉を悪い意味で捉えているものですが、それは捉え方が狭いだけなんです。

エゴイスティックというと、一般的には自分のことしか分からないとかそういう意味ですが、その自分がそのままでも実際は狭くなくなれば、自分の枠がなくなれば意味が変わってきます。

例えばこうやって、自分の周りに円を描いたとします。そこへ入ってこられた方には、「はいはい」という。

でも、来たくない人はどうぞそっちへ行らっしゃって何の問題もありません、といいます。そして、この自分の円周の中へ入ってきた人は、私自身に他ならないという捉え方なので、私は全く自由にしています。

そういうセンスです。このこともバガヴァンがおっしゃっています。

「私は最もエゴイストです。私は自分のことしかしていません。一人一人の魂が私自身の一つ一つの細胞にあたります。」と……。

私はそこまで大それたことは思っていませんが、この言葉を読んで、あっエゴイストでいいんだと思いました。
このままの私をバガヴァンが大事にしてくださるのですから……。

しかし、バガヴァンは大矢さんには厳しいです。
これは当然なんです。この運動をしていくときに、いろんなことを排除しなければならない。そういうときに甘くするわけにはいかない。甘くして、あなた好きなようにやっていったらいいですよ、というわけにはいかない。だから、きっちり教えも伝えなければならないということです。

大矢さんと私とでは、役割が違うわけです。

大矢さんとは対照的に、私のことは内側から支えてくださっているわけです。そういう意味で表と裏のように真反対なやりかたをしている。

たまたまその役を私に与えました、ということです。

私の場合、自発的に何かしようとするとうまくいかないが、バガヴァンは

「今からあなたがどんな世界に行こうと、私があなたの面倒をみます」

とおっしゃったわけで、人に支えられたら、喜んで支えていただく方がバガヴァンの言葉に沿った生き方なのだろうと考えています。

この間の中西さんがされたご結婚のディクシャ会の後、みなさんから「良かったよ」といわれて、ああ良かったなあと思っています。ブレーキにならなくてよかったなあと思っています。正直にいえばそういうことです。

ですから、これからもそういうふうにしていこうと思っています。

まず、自分をはずすことが大事です。

言葉というものは、後で誰でも皆、越えなければいけないものです。

本当の言葉の意味というものについては、まだ皆さん残念ながら使っておられないようですから、最初はとにかくもう「はちゃめちゃ」でもいいわけです。
自分をはずせば、めちゃめちゃでもいいわけです。

品性が良いとか悪いとかいいます。私は品性ということは大事にしてきました。しかし、品性があるというものも一つの価値です。品性がないのも同じだけの価値なんですね。パラドックスです。パラドックスのどっちを使っているかがわかるようになれば、また違ってくるわけです。

この綱渡りが非常に大事です。綱渡りはどちらへ落ちるかがわかりやすいです。私は子供のときからよく感じていたのですが、常に高山を縦走している自分なんです。この縦走路が平坦になることが大切だと思っていました。なればいいなあと思っていました。そういう意味で、もう真理しかないと思っていました。

でも、求めているうちは、自分がその両方の上にあっても分からないんです。それが私の最後に勉強したことです。

私は2003年秋に、インドで4回ディクシャを受けました。4回目が一番強烈だったのですが、3回目のディクシャのとき、
「今日、あなたに悟りをあげますよ」
とアチャリア師にいわれて、まる一日たったとき、バガヴァンからのメッセージを伝えますといってこられました。このとき
「あなたは仏陀になりました」
というメッセージをいただいたわけです。

その日はもう天にも昇る気持ちです。次の日にはちょっと落ち着いてきます。三日目になると慣れてきて、四日目になると、なんだこんな、って元の木阿弥です。ぶつぶついっていました。こんなことで日本に帰って、悟ったとはいえないと……。
悟りを与えるといっても、こんなものか、というような体験でした。

しかも、その前の二回目のディクシャは強烈な体験で「私は悟った!」といいたい体験だったのですが、無視されたのです。アチャリア師は何もいわない。

私にディクシャをしてくれたスージャイダーサ師が
「どんな体験がありましたか」
と聞くので、
「実はいきなり渦巻き銀河がでてきてどうだこうだ」
というと、
「あ、旅がはじまりましたね」
としかいいませんでした。

このとき、自分では悟ったと思っていたのです。それを無視されてがっかりしました。
「ああ、違っていたか、駄目だなあ」というわけで、また一週間です。こんなので帰って悟ったなんていえないではないか、などとぶつぶついっていました。

しかし、その前に「あなたがたは、悟ったらこのキャンパスから出て行きますよ」ともいわれていました。いつ出て行けといわれるのだろう、でも、こんな状態では、などと考えていましたが、幸運にも、そういうことはいわれませんでした。

それから、キャンパスを移動して、明日またディクシャがありますということでした。ほぼ一週間おきにディクシャがあったわけですが、私もその場にいて、ディクシャがあるということを聞いています。私もここにいるわけですから、ああまたディクシャしてもらえるんだなと思いました。

そして、次の日は、ディクシャを受けて一時間位でもうスッ飛んでしまったんです。

蟻にも咬まれました。沢山の蟻に咬まれて、ひどい痛みもあったのですが、もうその途端に光の渦の中だったんです。
そうなった瞬間、ダーサ達がとんできました。ダダダッと走ってきて
「何かあったんですかー」
といってきました。
私のところにきたら蟻がいっぱいいる。それをはたき落としてくれました。蟻がたかっている服を脱がせて、反対側のマットに移してくれました。それから私はバスタオル一枚で「うんうん」唸っていました。

そこへお弟子さんが次々に見に来る。見世物のようになっていました。何で来るのかなあって、思っていました。知らない人も含めて十人くらい次々に私を見に来ました。

私の手を見て目をそむける人から、優しく薬を塗ってくれる人までいたのですが、私は光の海にいながら、ずっと2,3分おきに、首を傾け続けていました。すると、その度に
「あなたは求めている。サーチしている、サーチしている」
というのです。

そんなものはないといわれました。
「究極の真理なんてものはない」
と……。それでも私はずっと首を傾げ続けていました。

それからしばらくしてお弟子さんと会ったとき、その理由を教えてくれたました。
どうしてないか。
「あなたはそこにいる」と……。
そこにいる。そこにいても求めていたら得られない。まさにパラドックスです。

すべて後で気がつきました。ああそうだったか。あれがそうだった、ということでやっと光の意味がわかりました。光とは何かということが了解できた。

「言葉」はほぼ分かりかけていましたが、「光」は分からずにいました。
光についてはマハワキアの最初にあります。

「私は至高の光、至高の言葉、至高の友、至高の知性……」か何かそんな順番で書いてあります。それが最初に読んだときは分からずにいました。あとのこと、言葉ということについては分かりかけてましたが「至高の光」の意味が分からずにいました。

私はそれで諒解したわけです。つまりそこにいる、といってもらったのがそのヒントです。

光の海にいる、と……。光の海にいる状態が10時間ほど続いたあと、冷めてから、それが分かったわけです。

私には何も分からないが、分かった気になるというのはその体験のせいです。本質的に分からないものはないという、傲慢に聞こえそうな言葉ですが・・・・・ 現実的なことは、何もわかりません。例えばこのコップをどうやって作るのかというような情報は私にはありません。そんなことは他の人にまかせておけばいいわけです。

TMでもいいますように、純粋意識に関して、
「すべてが、存在のあらわれだ」
という言葉があります。それはそうでしょうという感覚です。

意識して説明すれば、もうすべてがそこにある、それ以外ないし、あってもなくても同じであるとか、言葉で言うと「ごちゃごちゃ」になってしまうのですが、そういう何でもありの世界です。これは言葉通りです。

私は、ただそういう風になっただけです。あとは、何もない。そして、あの状態をいつまでも続けていると消えてしまうといわれていましたが、肉体的にはやはりこたえていました。

それからしばらく、感覚が消えたような状態が続きました。味がないというような、すべてが薄いような感覚です。

いわゆる無とか有とか表現されるような、素晴らしいというのではなく、空そのもの、形はあるけどないという状態です。無神経に近いような感覚です。

この状態にいると、なんでもすぐ消えてしまいますので、負担もないわけです。それが、今は少し色づきはじめています。至福といわれますが、この状態を何倍か何十倍かに増幅するとそうなのかなあという程度の感覚です。

それがしばらくありましたが、最近また色がついてきました。味がでてきました。この三週間かひと月位、少しずつ味が出てきています。以前もないわけではなかったのですが、自分としてすぐ忘れているような、空(くう)の中に体験しているというような状態でした。だから、ディクシャ会などで、皆さんといて楽しいという感覚があるわけです。

最も良いと思えたのは、そうした感覚のことではなく、どちらかというと知的なことでした。
2003年10月に帰ってきたとき、話しているとその人が持っている問題点だとか疑問だとか、聞いている端から答えが出てくるようになっていたことです。

そのときに、どんなことでも丁寧に聞けば全部わかると思いました。だから、このコップをどうやって作るんですかということを、私がそれを見てわかるというのではなく、どんなことでもちゃんと手続きをとってもらえば全部わかるという風に思いました。しかし、今はそういった考え方のようなものも消えてしまっています。何もわかりませんし、興味もありません。

今は、ほぼ自分として固まってきているのが、
「その方が本当にその方の中で喜びがなければどうしようもない。それは内側だけの話ではなく、外の世界でもそういう風にしてほしい」
ということです。

やっていることは内側がメインかもしれませんが、実際にお会いして、皆さんの表情を見ながら、話をするということです。内側だけではなく、しかし、内側に喜びがなければ外に開かないとも考えています。

そのことを皆さんお一人お一人により明確にしていただいて、まずそういうことに気づいていただいて、ということです。

良い体験をされる方、ではなく、ちょっと不安で、こんなことでいいのだろうか、とか、自信がない、とか、こんな悪い癖がある、とか思っておられる方たちがおられます。

私はそういうことを思わないため、大抵の方のことを分かったような気にもなれるわけです。実際に分かっているかどうかは別問題です。

私自身はすごく恵まれています。子供時代から、つらい思いをさせられたりもしてますが、そういういろいろな体験をしていないと人の気持ちが判らないわけです。そして、今では自分で自分はエゴイストだといえます。他の人のために働こうなどどと思う必要を少しも感じません。

結論をいえば。理屈も、どんな理屈でも使えますし、何よりも今私が恵まれていると思うのは、皆さんの話されていることは、本当に分かっているかどうかは分からないけれど、分かった気にはなれるということです。

こんな風にいっても、聞いている皆さんには本当に分かっている人がここにいるように思われるようです。疑ってもいいようなところで、疑われないのはすごく楽です。

だからバガヴァンにもの凄く大事にされているという実感があります。

一つは宇宙の体験をさせてもらいました。それは上も下も無い。多分皆さんが思っておられることというものは全て実現します。全部、世界にずっとあるわけです。

こういう言葉で抽象的に全部ありますよということを納得できるような体験をさせてもらっていますから、こう言い切れるわけです。この点を多分皆さんは受け取ってくださっているのでしょう。

そして、私は子供のころから好き嫌いは悪いものだと思ってきました。良いか悪いかということを基準にずっときました。ですから、好き嫌いということを前面に出してこれる方というのは、あまり私のそばには来られないかもしれません。

私がいう好き嫌い、良い悪いというのは言葉であって、その方のセンスは別かもしれませんが……。こういうことで、実はもう反動として起きることが起きています。私はエゴイスティックだと、「私」ということをいえます。「私」なんかありませんという教えですし、「私」があることが拘束だといいますが、私はそれを聞いても平気でいられるわけです。

でも、そういうことが実際障害になっている人には平気で
「私ということをちゃんと見てください」
といいます。言葉ですから、表現するときのいろんな定義づけですから、そこを本当にきっちり捉えて伝える必要はあるわけです。

兎に角自分がやりやすいことをまずやってくださいということです。今、ディクシャが最高です。これ以上のテクニックはありません。そう意味でテクニックではないとしかいいようがないのですが、これは最高のものです。

これに関してアプローチするには、皆さん、自分のやりやすいようにアプローチしていただきたい。好き嫌いを前面に出して、好きな言葉でやって欲しいですね。

相性のいい人のところで、まず受けてください。そう思っていても違うかもしれない。そのときの気持ちに忠実に動いてください。そして、相性がよくわかったし、大体もう勉強できたなと思ったら、いろんな人を経験して欲しいですね。

もっと自分の魂が喜ぶことを見つけてください。

変わることは大いに結構です。真理に対して、まあ、真理というのはあってもなくてもいいことですが、それに対する求心性、それは自分の中にあるものなのですから、それを忘れないことです。

しかし、ご自分の感性が勝手に教えてくれますから、求める必要はないです。

その意味でアンタリアーミン、ここ(ハート)を大事にしてください。それがどんな古い感情や価値観があってもかまいません。それに従ってください。自分が体験する以外、成長もなにもありません。一人一人の真理しかない。集合の真理などというものはないのです。あるという人がいるとしたら、それはその人だけの真理なんです。

2003年10月にインドから帰ってくるとき、アチャリアさんにマハワキヤを使っていいですかと質問したら、どうぞということでした。

今回もインドで幾つか質問しました。
私はこうやってディクシャの会を持っています。午前中にプレゼンスの目覚め、内なる存在の目覚めをやって、12時にディクシャをします。午後はサムスカーラシュッディをやっています。お話をするときに、時々、マハワキヤを使っています。今後はもう少したくさんマハワキヤを入れてゆきたいと思っています。私がやっているこの方法について何かアドバイスがあったら、教えていただけないでしょうか? とお聞きしたら、
「あなたはあなたのスタイルを作っているから、それでいいです。マハワキヤをどうぞお使いください」
ということでした。

マハワキヤは今まで日本ではほとんど大矢さんしか出しておりません。英文で書かれており印刷物も今は63節までのものがあります。だから外国の人たちは自由に読めますが、日本人は英語に慣れていないので、英語が本当によくできる人以外は誤解する可能性があります。訳する場合、本当に教えの中枢部分を相当理解していないと、誤解して伝わって、いろんな質問にもちゃんと答えられないということがあります。

はじめてディクシャに来たような方にお話をしてもよく分からないかもしれません。しかし、これはバガヴァンが直接話しておられることばで、教えのエッセンスですからこうしてギヴァーの人が集まったときにお話したらいいかもしれないと思いました。

「仕事からの解放は社会からの解放です」
「あなたの身体はあなたの身体ではありません」
こういう言葉も載っています。

これは、いろんな教えを理解するというのではなく、それぞれの人が体験を深めるための、教えの核になる部分がありますから、そういうことは皆さん知っておいた方がよい、理解された方がいいと思います。

女性のみなさんがここにこうしておられるのも象徴的です。19節にありますが
「女性を大事にしてください。すぐにあなたがたは恩寵を得ますよ」
という言葉です。これは男性から女性だけではなく、女性が女性を大事にすることも含まれています。

歴史をみても分かるように、女系社会は幸せなんです。これは皆さん知っているはずです。そういうことがちゃんと書いてあります。こういったバガヴァンの言葉について話していこうと思っています。

5,6年前にバガヴァンに私のスワダルマ(使命)は何ですか、ということをお聞きしたのですが「あなたはダルマのティーチャーです」
ということでした。ダルマというと今でいう、バガヴァット・ダルマのことです。つまり
「宇宙の中の法則性に関する教師です」
という答えでした。
続けて、
「では、いつまでそれは続きますか?」
「その仕事はいつまでありますか?」
と聞きましたら、
「2012年に、皆さん無条件の愛の状態に人類がなります。そして、2025年に、人類は無条件の喜びの段階に入ります。ここへ来れば、人類全体が人生が喜びであるということが理解できるようになる。2040年に無条件の平安に入ります」
ということでした。
要するに平和ですね。
この時点までその仕事はあります。つまり、教師になる方、1,300人といっているその教師の人たちに教師という役割がある限りは2040年までは続きます、ということです。

そこから先はもうなくなります。完全に解放されます。私は個人的なこととして、お聞きましたから、だから2040年までは寿命があります、ということだと思っています。

そこまでは仕事があるということで、で、ある方にその話をしたところ、私は今年の3月で大学を辞めましたが、丁度33年勤めました。今34年目です。2040年というのは今年を除くとあと33年なんです。今は、バランスをとる時期にきている。という意味でやっと、手放しで喜べる、自分の道を行ける時期が来たのかなあと思っています。

先ほど、皆さんの個人的なバックグラウンドをお聞きしましたが、本当にその人その人らしい道にいらっしゃる。そこに気づくというレベルが悟りです。そしてその悟りはいくらでも深まっていきます。

まず言うならば、ゼロにリセットする状態です。そのレベルが最初の入り口です。そのとき、ああ自分はこれで良かったのだと、このことを受け入れますと、つらいですが、つらかった心理的な部分がキャンセルされます。完全かどうかは別として、まず自分がそれを納得される時期があって、ここからより深まっていきます。

1300人というレベルは、他の人たちに影響を与えることになりますからもっと先になります。自分の中がまずクリヤーにならないと、リセットされないと、うまく行きません。

そういう意味で、私は少しばかり先走りしていますが、私はエゴですといいます。こう身体をひろげて、この中に入ってきた人にいいますが、勝手な意味で使っています。

もう少し皆さんがはっきり体験されるようになると、その1300人なのだろうと思っています。1300人のレベルというのはそういうことだと思っています。

10万人に対して影響を与えることができるベースがきっちりできるレベル、それが1300人です。

ですからインドに行って1300人というのはそれの候補生ということで、実際は1300人で終わるのではなくて、2000人でも3000人でも来てください、ということでしょう。

ということは、あなたがたが全員そういう風に順調に行くかどうかは、2012年までということを考えたら、やはりギャップというか凹凸があります単純には申し上げられない。

しかし、こういう風にいうと、劣等生が出るという話になりますが、そんなことではないのです。

1300人というのは、そんな自動的なものではないですよ、ということです。 
最近インドに行ってきました。そこでお会いした方で、行ったら悟りをもらえるもんだと思っていかれる方がいる。帰ってきて、そんなのは嘘だったじゃないかとおっしゃる。

その通りですね。そこから本当に今までより格段に成長のスピードが上がるんだという風に考えていただくべきです。

それぞれの方のベースというのはどこにあるか分からないわけです。とんでもない高いレベルで行くかもしれません。あるいは、大抵の人よりはどうしようもない位だめなレベルで行く人もいるかもしれません。

わからないです。宇宙ですから。
自分が気づくあるレベルにきたとき、ああ、これでいいんだとみんな思うはずなんですね。そこまでは今までの習性が残りますから、いろんな価値観で、いろんな見方でおっしゃる。だから、それを認めてください。まず、素直になってください。そうしたときに今ある状態を受け入れることができる。

まず、素直にならなければ。ああだこうだ比較してばかり、外ばかり見ている状態ではしょうがないです。まず、素直になって、観念してくださいというわけです。観念するための準備をしてください。今のあなたの感覚、感性そのままでいいですということです。

それをまずやっていただく、というか、当たり前のことですが、それでもある価値観で凝り固まっている人というのはそこから行きます。

そうした段階で、では今をそのまま受け入れてください。そのためにはいくら駄目な状態でもいいですから、それでいいですよ、とアンマ・バガヴァンは抱きしめてくれるわけです。そのとき、ああこれでいいんだ、と。

周りと比較したら大変な状態かもしれません。でも今までなかったほっとしたものを感じる。そこからです、スタートは。

ここからはもう落ちないんだということを自分で、こんな低くてもいいんだということで納得できる方もいるわけです。

気がついたら、私はこんな高い所にいた、ああすごく幸せという人もいます。

どこから行ってもその人のことですから、それでいいわけです。

一人ひとりみんな違うわけです。そこを本当に感じていただきたいし、安心感を持って欲しいわけです。比較してもいいです。いくらしても自由です。

しかし、比較することによって大抵皆さん苦しくなってしまわれますから、しなくていいレベル、ポイントをまず皆さんに感じて欲しい。それだけです。

あとはディクシャが自動的にやってくれると、私は思っています。

 

 

シュリムルティ
シュリムルティ